日別アーカイブ: 2009年12月12日

アメリカ的なものへの決別

ノーベル平和賞を受賞したアメリカのオバマ大統領が、授賞式の席上で演説した中で、暗にイラクとアフガニスタンにおける戦争を正当化したことを巡って、今世界中で議論が百出しています。

多分こんなことは、今までになかったことです。
平和への貢献を認めて贈られる、世界一権威のある賞の受賞者が、平和の実現のために時に戦争という手段も必要であり、これまでのアメリカの武力行使はその意味において正当だと宣言したのですから。


アメリカという国・・・。
世界中の国々がアメリカの成功に倣おうとし、世界の覇者たるアメリカ・・・。

しかし事実を見る限り、一方で世界中に戦争の火種をまき散らして来たアメリカ。
冷静に思い起こせば、建国の歴史からして血に染まっていたのではなかったでしょうか。
かつてヨーロッパがアメリカ大陸の存在を発見した時、そこを「新大陸」と呼んだことは、先住民の側からすれば「傲慢」以外の何物でもなかったはずです。


また、アメリカが関わった戦争のほとんど全てが、アメリカ自身の画策によって始まったものであることは、後になって次々と明らかになりました。


しかし今私は、そのアメリカの人々を糾弾せよと言いたいわけではありません。
今、世界中の人々が、そしてアメリカの人々自身も、気づいて決別しなくてはならない何かがあると言いたいのです。


アメリカ的なもの・・・。
アメリカを、そして世界を動かしているメカニズム。

長い時間をかけて少しずつ形作られ、今この時代に姿を現したそれは、競争原理と産業と経済そして戦争も組み込んで出来上がった、まるで巨大なゲームマシンそのものです。
今や世界は、一大賭博場の様相です。

もはや誰もが、このゲームに加わらないわけには行かない。
そして勝っても負けても、次第に世界はお互いに疲弊しつつあるように見えます。

もちろん、自然の営みの中にも競争があり、闘いがあることは確かです。
しかし、人間はそこに際限なく残虐性を加えることが可能です。
このゲームに勝つために手段を選ばない、つまり回り回って戦争もありとするなら、そこから先は際限はないということです。


アルカイダ相手に交渉の余地はないのだと、アメリカが言うなら、アメリカを相手に他に方法はないのだと答えるでしょう。
長い歴史の中で、どちらが先に手を上げたのかを言い始めたら、全く切りのないことです。


この終わりのない罠と疲弊から救われるために、何に決別すべきか、それを考えなくてはならない時が来ていると思う私です。