ターニングポイント

昨日も今日も、それも朝に晩に、市の防災無線のスピーカーが報じるのは、熊の出没のことです。
中には猪の出没のこともあります。
山間に限らず、街中でも人家の直近でも、所構わずです。

何と言ったら良いのでしょう、野生動物と人間社会との関りに置いて、ある意味ターニングポイント、つまり引き返すことの出来る最終地点を越えてしまったかも知れません。

動物たちの態度は、明らかに変化しています。
人に対して、遠慮が無くなったと言ったら良いかも知れません。

人が日常的に活動している領域でも、時間を選び状況を選んでどんどん侵入し歩き回っています。
窓を開ければすぐそこの見える場所まで来て、庭の柿の実を食べ大きな糞を残して行く熊がいます。
野生動物にとって、糞をするのは落ち着いて安心している証拠だそうですから、もはや人家の直近がそんな場所になっているということなのですね。

熊の足跡を見れば、熊がどんな気分でそこを歩いたかが分かると言われています。
私も、おぼろげながら少し分かるようになって来ました。
例えば、どっしりと落ち着いていたか、ビクビク緊張しながら来たか、そんな様子を窺い知ることが出来ます。

人の日常的な生活圏に野生動物の侵入を許すのは、本当はあってはならないことです。
それは、動物の側から見ると、人間の敗北と映ります。

相手が熊や猪、またニホンザルなどの大型獣の場合、人命に危険が及ぶ可能性大です。
第一、日々の生活に深刻な支障が出ます。

以前は街はずれの山間地の特殊事情に過ぎなかった野生動物の侵入が、今や街中の駅前のような場所でも起こっていることを考えると、最初に申し上げたターニングポイントを越えたかも知れないという意味をお分かりいただけると思います。

もしそれが事実だとしたら、我々の社会は今後、野生動物との付き合いに悩まされ続けることになります。
解決への道は遠く、社会的経済的負担も小さくは済まないでしょう。

今のうちに・・・という段階は、もはや過ぎ去ってしまったと思っている私です。


明日と明後日、食工房は定休日となっております。
お間違えのございませんよう、よろしくお願いいたします。

ターニングポイント” に1件のフィードバックがあります

  1. 高砂の松原の連れ合い

    随分とお困りのご様子ですね。
    生物を人工的に育てていると、どこかの段階で増殖速度が削減速度(捕食圧力や駆除能力)を上回ってしまい、管理者の手に負えなくなる事がしばしば起こります。
    その際に、施設などの「管理された空間」で行われることは、「リセット」と呼ばれる大量虐殺です。
    人工的に管理されている空間では簡単に行えるリセットも、神様が管理している空間で「人間が行う」となると、様々に厄介な出来事を引き起こす事になります。
    銃器と火器使用許可者をたくさん用意して、銃器により人間がリセットを行う事も可能なのかも知れませんが、それにより銃器による犯罪が増えて、逆に人間の方が「リセット」されてしまう可能性もあるので、様々に法改正が必要になってくるのでしょうね。

    生業としての「猟師」業も今ではほとんど廃れてしまっていますし、一般の人間には熊や猪や猿を相手にできる能力はないし、かなり手詰まりの状態なのではないでしょうか?

    これは想像でしかないのですが「動物愛護の在り方が問題」という事ではない、もっと現実的(金銭的?)な「何か」がこの問題への対応を阻んでいる気がします。
    例えば、銃火器に関する法律や駆除にかかった実費の費用負担がどうなっているのかも、我々の様なその事に携わらない一般の市民には、全く判りません。
    そもそも、日本では銃火器所有の資格審査がとても厳しい上に、銃火器自体が非常に高価なものであるため、所有している人が極めて少ない状況だと聞いた事があります。
    恐らく、駆除される側の熊や猪、猿の数の方が多いのでしょう。
    しかもご高齢の方が多いという事も聞いた事があります。

    さらに、駆除された動物の処分費用の負担も問題になって来るでしょう。
    現実問題として今、我々が食している「食肉」は「牛豚鶏」の三種がほとんどです。
    あとはごく稀に「羊馬鴨鹿猪鯨」の肉を「変わり種」もしくは「珍味」として食べる程度でしょうか?
    熊や猿は、ほとんどの人が「食べた事もない」のではないでしょうか?
    ということは現実的に流通にのることがないため、殺処分された駆除動物は「一部の人に珍味として配られる」事がほとんどではないのでしょうか?
    これでは、使用した銃弾の代金すら回収できない事になってしまいます。
    今の世の中は何でも「経済の論理」で動いていますから、人間の思考も「経済の論理」にどっぷりと支配されつつある様に思います。
    そんな「金に支配された脳」でものを考えたら、害獣駆除などという「全く儲からない事」を行う気になる人はほとんどいないでしょう。

    しかも感謝される当事者の声よりも、非難する「動物愛護集団」の声の方が大きいのですから、ますますやる気が失われる上に、何やら後ろめたい気持ちになって、できるだけ秘密裏にことを運ぼうという気持ちにすらなるのではないでしょうか?

    これは明らかに「人間が全生物の頂点であり、他の生き物は人間よりも下位の存在だから、人間に利用されるべきである」という、ある種の共同幻想がもたらした、構造的な問題を孕んでいると考えて良いと私は思っています。

    人間は、いつの間にこんなに驕り高ぶった存在になってしまったんでしょうね。
    少なくとも、この日本では100年ほど前まではもっと謙虚に暮らしていた(一部特権階級を除く)のではないかと思うのですが、たった1世紀で随分と様変わりしてしまったのでしょうね。
    昔をご存知の幹雄さんが「嘆き」「憤る」のも当たり前の様な気がします。

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