フードロスを別な角度から考えてみる

フードロスと言う言葉をよく聞くようになりましたね。
食糧自給率の低い我が日本は、大量の食糧を輸入に頼りながら、一方で食べ残されて廃棄される食品の多さが世界有数と言うことで問題視されています。

輸入してまで捨てる国「日本」と、そんな汚名を着せられるのはうれしいことではありません。
コンビニで売れ残って廃棄されるお弁当とか、スーパーで売れ残って廃棄される食料品とか、誰もが何とかしなくてはと思うのは当然でしょう。

しかしこのフードロスを別な角度から見ると、捉え方は一変します。

自分でつくって自分で食べることが基本の生活、例えばこのあたりの農家がその様子を色濃く残していますが、米でも野菜でもその他何でも、売るためでなくても有り余るほど作ります。
と言うか、そのくらい出来てしまう部分もありますが。

そこで言えることは、足りなくなったら買えばいいというのは自給自足ではないと言うことです。
間に合わせるためには、余ることを前提にして沢山作る必要があるのです。
だって、しくじって穫れなかったら飢えるしかないのですから。

そしてまた、余って最後に捨てることになっても、それらは全て畑に返してやれば肥料になって翌年の収穫に繋がっていくのですから、無駄になるという考え方そのものがありません。

我が家も畑をやるようになって、その感覚が少しずつ分かるようになって来ました。
余るようなら隣近所に分け与えれば良い、その隣近所からは自分ところで作っていないものを恵んでもらえる、それでも余るなら畑に返せば良い、そうやって回っているのですね。

ちなみにわが家では、この冬は白菜と大根は春まで食べても到底食べ切れないほど囲ってあります。
その他、かぼちゃ、さつまいも、じゃがいも、里芋、人参、ネギなども保存しています。

米は、親戚や近所からいただいたもので、だいたい一年間間に合っています。

麦とパンは家業なので、自家消費分は気にすることはありません。

そして、それらの中で余って最後に捨てるものは、すべて畑の肥料して土に返します。

自給自足の暮らしには、フードロスという概念は生まれないと思うのですが、如何でしょう?
翻って、このグローバルな世界の中で、経済の名の下に、自国の食糧確保のために他国の自給自足を妨害するのは、人道に反する行為だと思いますが、これも如何でしょう?

では、フェアトレードならいいかと、そういう問題でもないと思いますが如何?

我が日本、まずは食糧自給率を上げることでしょう。
出来ると思いますが如何?