未来を想う心

未来を想う心

今は亡き父が50年前に買って残してくれた、わずか5aの山林。
私の代では、当然ながら収穫にはなりません。
この子たちのさらに一世代先に想いを馳せて、手入れをします。
2007年、二回目の間伐を終えた直後。


今の私たちにあるだろうか・・・?
即ち、未来を想う心が・・・。

山に木を植える。
それが育って、立派な木材として伐り出されるのは、50年後かあるいは100年後の話だ。

それまで、何もしなくて良いわけではない。
かける手は数限りなくある。
下草刈り、ツル払い、枝打ち、間伐等々。
そしてそれらは、その場で報われる仕事ではなく、未来を想ってする仕事なのだ。

一方我々は、100年前先人が植えた木を伐りその恩恵に浴することが出来る。
この時我々は、未来を想って先人たちがしてくれた仕事に、厚い感謝の気持ちを覚えるだろう。

だからこそ、我々は未来に向かって無償の仕事を喜んですることが出来るのだ。

未来を想うことは、同時に過去を想うことでもある。
我々は、時間の流れの中にいて、過去も現在も未来も皆、密接に関わり合っているのだ。

想像力を失くした現代人が、今のことだけに捕らわれていると揶揄されるけれども、実は今一瞬のことにさえ想いは至っていないのだ。
考えて見てもらいたい。
今と言う時間だけを切り取ることは出来ないのだから。

21世紀の今、我々はもう修復出来ないかも知れない程に自然を破壊してしまった。
それを、これから先を生きる人たちに残すことになった、ということだ。

経済がどうしたというのだ。
豊かになったと言うが、莫大な借金を、後の世代に付け回すだけの話ではないか。

そして、壊れた原発は、まき散らされた放射能は、どうするのだ。

もういい!もういい!止めようではないか!こんな恥さらしな所業は。

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