生存は戦い

この頃、生存は戦いであると思うことしきりです。
ロシアが隣国ウクライナに侵略戦争を仕掛けて早や2年半、ウクライナの人々は、まさに生存をかけてロシアと戦っています。

それとは比較になりませんが、私も、生活の安全保障のために、また大切な農作物を守るために、獣たちと戦う毎日です。
また病気の治療に専念することも、「闘病」と呼びこれも生存をかけた戦いです。

他方、自然界に目をやれば、そこにも生存をかけた様々な戦いの風景が繰り広げられています。
今、私の脳裏を、生存は戦いであるという側面が大きく占領しています。

一方、生存は、融和、協調、互恵、共生によって支えられるものであることもまた確かです。
ただし、これは世界の半分を見ているに過ぎません。
否、これだけで世界が成り立つのであれば、そこはパラダイスという名の楽園に違いないのでしょうが、そうは行きません。

ウクライナとロシアの戦いをみても分かることですが、外交努力だけで戦争を防ぐことは不可能です。
確信的に侵略を意図して向かって来る相手に対しては、戦う以外対処する方法はありません。

比較してはいけないのかも知れませんが、私が立ち向かっている獣害においても同様です。
動物愛護の精神だけでは、獣害を無くすことは不可能です。

我々人類もまたこの世界に生きている以上、自分たちの利益を優先するのは当然です。
それが、他の生物の迷惑になるからと言って、それをすべて悪とするなら、私たちは皆生きることを止めなくてはなりません。

どんなにバランスを取ろうとしたところで、何も殺さず傷付けず、どこにも圧力を生まない生存など、人類に限らずともあり得ません。

むやみな殺生はすべきではありませんが、その手段を放棄することは生存をあきらめることと同じです。

何事も、相手次第でしょう。
相手によって手段を選ぶだけです。

かつて人類は、オオカミの仲間である犬を手なづけ、お互いの生存に貢献し合う関係を築きました。
牛や馬もそれぞれに、人と共に暮らしています。

一方、クマはどうだったでしょうか?
とうに結論は出ているはずです。

この強い生き物を大人しくさせておくには、戦ってこちらの強さを思い知らせる以外なかったということです。
いつも彼らに向かって圧力をかけ続けていなければ、彼らの側に奪うことに対する遠慮は存在しません。

今、人類が何万年をかけて築き上げて来た、いろいろな獣たちとの関係が大きく崩れようとしています。

間違った動物愛護の感情に取り付かれている間に、我々が何を失うことになるのか、その重大さに一刻も早く一人でも多く、気づいて欲しい!と願う私です。

生存は、常に戦いの一面を持っていることを忘れないで!

関連記事 「共存は不可能、クマの性格」  「学習放獣」という名の謎

コメントを残す