高野通信」カテゴリーアーカイブ

似て非なるものの例え

大胆 と 無鉄砲

慎重 と 臆病

大らか と 無頓着

細やか と 神経質

前向き と 強引

素直 と 言いなり

優しさ と 弱さ

強さ と 冷淡さ

見守る と 見張る



まだまだいくらでもありますね。
言葉遊びと思えば、それなりに面白いですが、なかなかどうして深い含みがあります。
二つを勘違い、あるいは取り違えると、人生が危うくなったり、引いては世界が危うくなったりするのかなと・・・。
仕事をしながら、時々こんなことに頭をひねっている私です。




じっーと見つめていると、突然裏返って見えたりします。
お暇のある方は、お試しください。

週末のお楽しみにどうぞ

私や二人の娘たちが、フィンランドびいきと言うことは時々語らせてもらっていますが、ネット上でよく楽しんでいるフィンランドのミュージシャンたちのビデオクリップをいくつかご紹介しましょう。
娘たちは最近、フィンランド語とスウェーデン語が少しでも分かるようになって来たので、どんどん深入りしていろいろ見つけます。
横で私も楽しませてもらっています。
よろしかったら、皆さんもご覧ください。

http://yle.fi/elavaarkisto/?s=s&g=8&ag=93&t=581&a=5179
MeNaiset: Viinarattihin rakastuin
フィンランドの歌姫たちが集まって作ったグループ
この曲では、楽器を使わず歌声だけですばらしいパフォーマンスを見聴かせてくれます。

http://yle.fi/elavaarkisto/?s=s&g=8&ag=93&t=581&a=5027
Helsingin Kaksrivisnaiset: Severi Suhosen jenkka
フィンランド随一のアコーディオン弾き、マリア・カラニエミ率いる女性5人全員がアコーディオンを弾きながら、素敵な歌声を披露してくれます。

http://yle.fi/elavaarkisto/?s=s&a=4973?s=s&g=4&ag=26&t=581&a=4973
Loituma: Ievan polkka
フィンランドのグループ「ロイツマ」の大ヒット、「イェバン・ポルカ」

http://yle.fi/elavaarkisto/?s=s&g=8&ag=93&t=581&a=3972
Varttin:a Kiiriminna
フィンランド一の人気グループ、ヴァルティナの17年前の演奏による「キルミナ」という曲。
このグループは、25年前に少女たちのグループとしてスタートした。

http://jp.youtube.com/watch?v=0-opoe2Jxls
Vrattina- Kiirminna
同じヴァルティナの今年2008年のステージでの同じ曲です。

近未来考

近頃の世界の状況を見ていると、私が子どもの頃、未来像として語られていた世界とは、ずい分様子が違うような気がします。
今世紀初頭の象徴的な大事件、9.11同時多発テロに続く戦争、そしてまた戦争。
不穏な世界情勢の中、最近急浮上しているのは、石油価格と食糧価格の高騰です。
私たちの生活を直撃するこの事態は、もう二度と楽観を許すことはないかも知れません。
しかもそこに投資家たちの思惑が介入して、意図的に実際以上の危機が作り出されているのです。
そんな状況でまっ先に犠牲になるのは、貧しい国の貧しい人たちでしょう。
彼らの置かれている状況は、あまりにも深刻です。

さてある筋によれば、近い将来私たちの世界は、資本家の帝国になるという予測があります。
本当にそんなことになってしまうのか、ここで資本家といわれる人たちの、利潤追求の手口を想像してみました。

実は、本当の金儲けは、実際にモノを売ったり買ったりする必要はないのですね。
資本家は、金を売り買いして金を儲ける、つまり金融でいくらでも利潤を上げられるのです。
その方が、むしろ効率がいいのです。

例えば今、高騰する石油や食糧を買い占めて相場をつり上げ一儲け出来るわけですが、こんな時、一山当てたい連中はいくらでもいますから、資本家は直接手を下すよりも、そういう連中に資金を用意して仕事をしてもらった方がいいわけです。

融資は、順調に返してもらえるならまことに結構!
利息によって利潤が得られるのですから文句はありません。
もし返してもらえなくても、相当額の担保を用意させているのが常ですから、それを取り上げればいいのです。
そして一番確実な担保は土地ですから、資本家はどう転んでも、最後には必ず土地を手に入れます。
それどころか、うまく行きそうもない計画にわざと投資して貸し倒れを装い、裏で土地を収奪する方法だってあるのです。
土地を収奪所有すること、これは完全なる支配を意味します。

そうやって、集まるところにはますます多くが集まり、乏しいところはますます欠乏していく、それが今の世界の流れなんじゃないかと思います。

ところで日本でもどこの国でも、今やたいていの国の財政は赤字で、わが国でも国有地の売却を進めたりしているわけです。
資本家がよその国の土地の所有者になることは、もはや珍しいことではありませんが、資本家たちの思惑で、あっちに転がされこっちに転がされしているうちに、この国の国土そのものがどこかの国の巨大資本家の所有物件になっていた、なんてことがないとは言い切れませんね。
そんな・・・、一体どこでだれが糸を引いているのか?
それが、決して私たちには分からないところが、彼らの巧妙さだと私は思っています。

風の人、土の人

ずっと前、人に聞いた話しですが・・・。

     人には二つあり
     風の人と土の人
     二つの人調和して
     風土を織りなす と


曰く、風の人とは、吹いて来る風の如く何処からともなく渡来し、一時その地に住み暮すことはあっても、やがてまた何処へともなく去って行く人。
いずれ何処かに果て骨を埋めるとしても、田畑家屋敷を残さず受け継がず、子々孫々もまたそれぞれの場へと散って行く。

他方、土の人とは、その土地に根を下ろし、代々、田畑家屋敷を受け継ぎ、家系を絶やさず、墓を守り先祖を祭り、土の如く不動の暮らしをしている人。


風の人は、土の人の如く足の地に着いた暮らしを恋焦がれるもののそれが叶わず、土の人は、風の人の如く自由に広い世界を見たいと願いつつそれが叶わないのです。
そして、一つの土地に土の人ばかりでは、気がよどみ人々は倦み疲れ、古い因習が支配するのみの死んだ場所となってしまいます。
また風の人ばかりでは、ものごとはいつも移ろうばかりで育まれ残されるものも無く、ただ風が吹きぬけるだけの不毛の荒れ野となってしまいます。
私たちは、廃村の憂き目に遭いそうな地方の限界集落に前者を、空洞化する都会の中心地に後者を見ることが出来るのではないでしょうか。

ところで、私はどちらかと問われれば、過去を振り返る限り、風の人です。
私が系譜を辿れるのは、父方も母方も祖父母までですが、私が生まれた時すでにこの世の人ではなかった父方の祖父は、瀬戸内の貧しい漁師の家の生まれで、幼い頃から諸国を放浪し辛酸の限りをなめつくした人であったそうです。
父は、会社勤めで無難に一生を終えた人でしたが、私はその反動か?いつも心のどこかで土の人の暮らしを羨ましく思いつつも、結局腰の据わらぬ風の人で過ごしてしまいそうです。

さて話しを戻して、今世の中では、一方にますます過密になって行く大都市があり、他方に空洞化して行く地方都市と崩壊していく限界集落があります。
いつの頃からか、風の人と土の人は相交わることなく、バラバラに生きるようになったのでしょうか。

そんなことと関係あるかどうか知りませんが、最近、何でもかんでも至るところで、ものごとも人間関係も分断されているような気がします。
何もかもがその場限り、私たちの人生もまた細切れな時間に切り刻まれて、このままではその日その日を自分の腹を満たすだけの家畜のように生きるしかなくなってしまうのじゃないか?それも多くの人々がそれと気づかぬうちに、そんな危機感を持っています。
最後にちょっと話しが飛躍してしまったかも知れませんが、また別な機会に続けてみたいと思っています。

カエルに泣かされるという話し

今頃の季節、我が家の裏の草むらでカエルが鳴きます。
昼となく夜となく、夜半はひときわにぎやかです。
家の裏には下水溝があり、そこでおたまじゃくしが育つのです。
まあその程度に水がきれいだということではあるのですが、このカエルが安眠の妨げになって困っています。
「カリカリッ、コリコリッ、キュルルルル!」ってな感じで、ずっと持続しているのならそのうち気にならなくなるというものですが、時々ピタッと止まったかと思うと、数分たってまた一匹、二匹と始まると言う具合で、その度に眼が覚めてなかなか寝付けません。
私は、元々音に敏感なたちなので、寝不足で死にそうにでもならない限り、このカエルさんの鳴き声からは救われることはなさそうです。
さりとて、カエルさんを一掃する手に出るというのも残酷すぎますし、それだけ下水もきれいな証拠だし、そう思って我慢していましたが、疲れがたまってどうにもなりませんので、耳栓をして寝ることにしました。
さすがに、鳴き声は気にならなくなりましたが、今度は目覚まし時計の音が聞こえなくて参りました。
気の早い私は、たいがい目覚ましより先に目を覚ますことが多いのですが、今朝は疲れていたせいか、鳴ったはずの目覚ましが全く聞こえず、一時間も寝過ごしてしまいました。
まだまだこれから一ヶ月?二ヶ月の間、この悩みはなくなりそうもありません。
どなたか良い知恵をお貸しください。

久しぶりの外作業

定休日の今日、草茫々になり始めた家の周囲の草刈りをして汗を流しました。
何しろ敷地が広いので、今日一日で終わらせることが出来ませんでしたが、それでも半分くらいはやったでしょうか。
借りている場所とは言え、自分がかかわっている間はそこそこでもきれいにしておこうと思い、裏の杉林も含めると1000坪近くはある敷地は、一夏の間に1~3回(場所によって)は草刈りをしています。
今日はまだ草が柔らかく、作業自体はスムーズでした。
それでも刈り払い機の刃は、始める前に研いで、その後2回研ぎ直さなくてはなりませんでした。
石垣があったり、その他いろいろな障害物が隠れていて、それを毎年やっていてもつい忘れて、ガツーンと刃を当ててしまうことがあるからです。
チップソーだとひとたまりもありませんので、うちでは、林業屋さんが良く使っている下刈り用の30枚刃を使っています。
これだと刃先がつぶれても、すぐに刃を付け直すことが出来るので、直径が二周りも小さくなるくらいまで使えます。
さてもうお気づきと思いますが、こんなところでも私は、切れ味の悪い刃では仕事をする気にならなかったりして、職人気質が出てしまいます。
そしてやり出すと、つい夢中になって途中で止められなくなります。
刃が切れなくなるか燃料がなくなるか、どちらかになるまで続けて、それをくり返しているうちに、結局体の方が降参して終了となります。
今日は、エンジンの振動で手が痺れて痛くなりましたし、腰も肩も少し無理したかも知れません。
何しろいきなりでしたからね。
でも辺りはスッキリして、気持ちが良くなりました。
写真を撮っておけば良かったのですが、気がついた時はもう日が暮れかかっていました。

世界平和について考えていて、思い当たったこと。

今、私たちのかりそめの平和は、世界のあちこちで払われた多くの犠牲の上に立っているということを忘れたくありません。
アフガニスタンで、イラクで、パレスチナで、アフリカ諸国で、今もなお続いている戦争。
60余年前、日本もまた戦争当事国であり、多くの人々が無念を残しつつ命を落としました。
そして朝鮮で、ベトナムで、中南米諸国で、東欧諸国で戦争があり、中央アジアでは今も、戦争の火種がくすぶっています。
これまでの人類の歴史の中で、一体どれほどの人々が戦の犠牲となったことでしょう。
その人々が、この世に残していった無念の想い、怒り、悲しみ、憎しみ、恨み、それらはたまりにたまって、今やまるで、時が経って固まった血のりのような赤黒い色をして、この地上を浸しているのが、私には見えるような気がします。
幸運にもこの時代に生き残って長らえている私たちは、それをどう引き受け、弔うことが出来るのか、そこが欠けたら、この世界に平和に生きられる場所は、ますます狭くなるでしょう。
否、すでにそうなりつつあるのではないか、私たちは大事なことを忘れている、気がついていないのじゃないか、そんな気がします。
それからもう一つ、戦争と犯罪は同じ脈絡の上にあるということも忘れたくありません。
違うのはただ一つ、戦争は、暴力を集団で正当化するということです。
今、この日本がとりあえず戦争当事国でないとしても、日々命に危険の及ぶ犯罪が蔓延し、幼い子ども達を安心して外で遊ばせることも出来ないような社会が、果たして平和と言えるでしょうか。

最近ますます混迷極まるかに見える世界、悩みが深くなって行く私たちの社会、そこに横たわっているのは、心の負の遺産とも言うべき、そうした無念の積み重なりであると私は思っています。
放射能にも似て、放って置けば誰かれなく害を及ぼし続けるその想いを葬るためにはどうすればいいのか。
私たちは、ただ毎日を自分の幸福と生きる楽しみを追いかけることに終始しているわけには行かないのだと、今改めて思う私です。

こどもの日



祭りの会場で、ダンスをするフィンランドの子どもたち

「カウスティネン・フォークミュージックフェスティバル」
公開写真より借用しました。


今日は5月5日、こどもの日です。
子どもの日にちなんで私が覚えていることと言えば、こいのぼりの中をくぐり抜けてはしゃいだこと、部落の集会所に集まりお菓子を沢山もらって、一日中うれしい気分で遊んだことなど、思い出は尽きません。
私が小さかった頃、人々の間には、まだ戦争の記憶が生々しく残っており、平和な世の中に子ども達が元気に育っていくことを、誰もが喜んでいる空気が満ちていました。

あれから優に50年、今はどうでしょう?
少子高齢化の時代と言われ、出生率の低下が社会問題にまでなっていますが、果たして、子どもを育み慈しむ空気が流れているでしょうか。
周りを見渡すと、1歳にも満たない子を保育所にあずけて、夫婦で共働きしなければ生活出来ない現実があります。
そしてそんな状況に対し、行政府が考える子育て支援は、安心して子どもを預けられる場所を確保する方向のみで、幼い子が両親と一緒に過ごす時間を保障しようという発想はありません。
また一方で、親となる若い人たちの間にも、何か大切なものが欠けているのではないかと思うこともあります。
私の6人の子ども達は大方成長して、もはや私の手の及ばない、自分自身の人生を歩んでいますが、こどもの日の今日、自分の半生と子ども達と過ごした時間を、静かにふりかえってみようかなと思っています。

  本日の食工房
連休も間もなく終わり、あと一日残っていますが食工房は明日は定休日、本日も、沢山のお客さまが見えました。
しかしながら、商品棚はいかにもさみしく、全く申し訳ない状態でした。
朝からがんばってスコーンを2種類焼きましたが、夕方までに1個を残してあとは売り切れました。
さすがに売るものがなくなっては、売り上げにはなりませんね。
スキルアップ!が重く耳に響くような気がする一日でした。

ほどほどに不衛生が良いとか・・・。

子ども達の三人に一人はアトピー体質だと言われます。
特定の物質にアレルギー反応を起こす体質を持っている人は、最近ますます多くなっているような気がします。
昔は、牛乳が飲めないと言っても、そんなことに配慮する風潮はありませんでしたが、今は学校給食でも、食品アレルギーに対して配慮するようになりました。
また花粉症などのアレルギー疾患も社会的にすっかり認知されて、春先はマスクをした人を沢山見かけますが、誰も特別気に留めなくなりました。
さて、このアレルギー体質が何故生じるのか、このことについて研究が進んだ結果、面白いことが分かったのですね。
それによると、まず私たちの体には免疫抗体反応という仕組みがあります。
これは、細菌やウィルスに感染したり毒物を摂取した時、その害を食い止めるために働く生理なのですが、公衆衛生が普及して生活環境に雑菌が少なくなった結果、その分他のいろいろな物質、例えば花粉とか特定の蛋白質などに過剰な免疫反応が起こる、それがアレルギーと呼ばれるものの正体だというわけです。
そしてその体質が生じるかどうかは、生後1~2歳までの生活環境によって決定づけられると言われ、アレルギー体質になるのを避けるためには、ほどほどに不衛生な環境にいるのが良いという結論だそうです。
ほどほどに不衛生、つまり少々前時代的な暮らしをしていれば良いということでしょうか。
だとすると、最近の住宅環境はあまりにも人工的で完璧に衛生的だし、人の手の触れるものは何でもかんでも除菌加工してあるし、私たちも何に触れる時もやたらに除菌スプレーを使ったりしますね。
これだけ世界規模で大量に人や物が動く時代になった今、恐ろしい感染症のリスクもないわけではないので、除菌に神経質になるのは、一方では止むを得ない事情でもあるわけです。
そうやってもう一方では、アレルギー体質が増えて行くというわけです。
だとすれば、子ども時代は田舎に暮らし、古民家にでも住まって、野山を駆け回って遊ぶというのが一番良いということになりそうですね。
私には、当たり前過ぎる結論だと思えますが、案外実現が難しいのが現代社会なのかも知れません。

鳥インフルエンザ

今、世界は、鳥インフルエンザに神経質になっています。
ここ数年来、東南アジアに端を発した鳥インフルエンザが、いつ人から人へ感染する能力を獲得するか、その次第では大量の犠牲者が出ることになるかも知れないのですから、無理もありません。
つい先日は、青森の十和田湖畔で白鳥が鳥インフルエンザで死亡したことが確認されて、大騒ぎになったばかりです。
この数年間に、鳥インフルエンザに感染したか、感染の疑いがあるとして殺処分された鶏など家禽類の数は、一体どれほどになったのか、見当も付きません。
何百万羽か何千万羽か知りませんが、時間稼ぎにはなってもそれで完全に防御出来るとは思えません。
野生生物由来の感染症が、やがて人にも感染を広げて来ることは、防ぎようがないのじゃないかと思うのです。
感染症は、この地上に生きている生命である以上、避けて通れないリスクです。
野生生物であろうと、家畜であろうと、はたまた人であろうと、基本的に境はないのです。
もし、完全に防御しようとすれば、人は直接間接を問わず、自然界と接触を断つしかないでしょう。
もちろんそれでは、生きていくことは出来ませんね。
そして免疫は、どんな形であれ一旦感染しないことには獲得出来ないものなのですから、そこのところを我々はワクチンという手法を用いて、犠牲を減らそうとするわけです。
今にも、多くの犠牲者が出ることになるかも知れない状況に向かって、建設的な見解ではないかも知れませんが、どうも私は、最近になればなるほど、人類は、自然界との付き合い方を見失っているような気がしています。
こうした脅威は、一旦避けることが出来ても、その次にはもっと強力で恐ろしい脅威となって再来しそうな気がするのです。
でも一方で自然界は、必ずどこかにそうした脅威に対抗するための資源を、また対応するための生理的な仕組みを計らっているような気がします。
素人の頭で考えてもしょうがないことかも知れませんが、この数年間、このことが頭から離れません。