駅カフェにて
コーヒータイムと言うと、くつろぎのひと時を思い浮かべますね。
休息は時に、何かを成し遂げることよりもずっと大切なことがあります。
皆さんは、休息の「質」を考えたことがありますか。
お休みの時、何もせずにボンヤリと過ごすこともあれば、何か好きなことに熱中して、みっちりと充実した時間を過ごすこともあるでしょう。
それぞれ人により、場合により、いろいろだと思います。
それにしても、現代社会の忙しさ、慌しさは、尋常ではありませんね。
私も、最近は何だかとても忙しくて、充実していると言えば聞こえは良いのですが、一日が終わる頃になると、何か悲しい気持ちになって来るのです。
サッと払いのければ、どこかに消えてしまいそうな程度のかすかなその悲しみに、少し浸って見ることがあります。
そうすると、マキとランプで山暮らしをしていた頃の感覚が蘇えって来るのです。
そして昨日の夜、突然、前に読んだことのあるミヒャエル・エンデの「モモ」のお話しを思い出しました。
それで分かりました。
私のその悲しみは、皆が時間銀行の誘惑に乗せられて行くのを悲しく思っているモモの気持ちと、どこか似ているなと・・・。
娘たちも言います。
「不便な時は時間がいっぱいあったのに、便利になったら何だか忙しいねえ。」と。
「人間は欲張り過ぎだ。いろいろやり過ぎだ。」と、今度は息子が言います。
そうすると、私が一番悪い人間だなァ・・・。
何でもかんでも、やりたがり屋で欲しがり屋で・・・。
何でもやり過ぎないことが、エコロジーの極意だったりして・・・。
そして休息とは、本当に何もしないで過ごすことを言うのでしょうね。
でも私は、せめて一杯のコーヒーだけは欲しい・・・。
獏の空の下から・・・
ドラキュラにはニンニク、時間泥棒には珈琲がきくと僕は思ってます。
従来の大量消費社会での「量」とは違った見方で「量」を考えていく時が来ていると感じます。
理系の見方でいけば、豊かさは1次式の直線では無く、2次3次以上の曲線。最大値は、意外と原点の近くにあったり?
Yasuさん、コメントありがとうございます。
でも、何だか難解ですね。
家に戻って 当たり前のようにテレビをつけて 人工的な音に囲まれて… 山都の3日間とのギャップにとまどっています。今日はお盆前なので お墓参りに行って来ましたが 環七が事故渋滞で1時間位車は動かず 山都だったらこの1時間で何ができたかなぁなんて考えてしまいました。
ほんとに!私も最近「モモ」のことを思い出していたのです。こどもが保育園に行きだしてからは、仕事に畑に・・・。これって充実してるっていうのかな?と気になって、ふと、同じく小さい子どもを持つ友達(山田さん)と、育児で何もできなくて「あたしたち、これでいいのかなー」なんて話していた頃の、今思うと純粋なエネルギーを思い出しました。
Sanaeさん、まさきさん、コメントありがとうございます。
どんなに忙しくて我を忘れる時があっても、また別な時に取り戻せる時間があるなら、それで良しとするしかありませんね。
だからこそ、休息の質が大事だと思っています。
昨日は何だかよくわからないことを書いてしまいすみません。
それにしても「何もしない」ことはすごく難しいです。うまく行かない時はいろいろ悪あがきをしたり、反対に調子が良い時はやりすぎたりと・・心配性、貧乏性でおまけに変な凝り性の僕は気づくと自分で作った締め切りに追われています。
今度「何もしない」というテーマでカフェ倶楽部を開きませんか!?週末より火曜か水曜が良いですかね?