阿武隈の山中で暮らしていた最後の数年間、私は写真を撮り続けていました。
被写体は、山の中の植物たちと山の風景。
どうしてお金のかかる写真なんか始められたかと言うと、従兄弟から写真道具を一式もらったからです。
フィルム代と現像代は、事情の許す限りボチボチと。
環境は良かったし時間だけはありましたから、今思うと、プロの写真家でも滅多に巡り会えないようなシャッターチャンスに度々巡り会いました。
ただし腕が追いついていなかったので、必ずしも素晴らしい写真が残っているわけではありません。
私が写し撮りたかったのは、生命そのものです。
大それたことを言うようですが、その時は本気でそう思っていたのです。
美しい写真はプロに任せておけば良いけれど、毎日山の霊気に触れて暮らしている自分には、もっと違った写真が撮れるはずだと。
そんな数年間もあっという間に過ぎて、私は山を下りてパン屋になりました。
決して写真を撮ることを捨ててしまったわけではありませんが、今は生命たちに向き合う時間がなくなってしまいました。
そしてその間に写真もデジタル化が進んで、先日久々にカメラ屋さんに行ったら、フィルムはもう隅の方に少し置いてあるだけという状況でした。
デジタルが悪いとは思いませんが、何と言ったら良いか、心の準備が追いついていないのですね。
それに、デジタル一眼レフは今はまだ到底手が出せないし、もうしばらくカメラは脇に置いておこうと思っています。
では、昔取った写真の中から、好きな一枚を・・・。
獏の空の下から・・・「チゴユリ」
「写真論」 の入り口
私がぼちぼちと私的な写真を撮り始めたのは、5年前にデジカメを購入してからのことで
刺激されて、写真について書き、トラックバックさせてもらいました。
私も近頃少し写真に親しみ始めたので、それがなかったら、写真についてのお話は、ちんぷんかんぷんだったかもしれません。
takさん、コメントありがとうございます。
人は、それこそあらゆる理由で写真を撮ります。
だからどんな写真もあり、ですね。
私も最近やっとコンパクトデジカメを買いましたが、老眼が進んで、悲しいことに液晶画面では欲しいポイントにピントがあっているかどうかさえ分かりません。
これで、もし自分が目が不自由だったら、写真は自分にとって意味のないメディアになってしまうでしょうね。
写真を撮っている時いつも思うことは、見えるということのありがたさや重さです。
これもまた奇跡だと。
>悲しいことに液晶画面では欲しいポイントにピントがあっているかどうかさえ分かりません。
私も同じです。
オートフォーカスを信じるしかないんですが、しょっちゅうピンボケが撮れます。
(あまり信用できませんね)
ですから、念のため、距離を変えて何枚か撮っておくようにしてます。
いずれにしても、見えることのありがたさ。確かにその通りです。