公平の難しさ

昨日、補償のことを取り上げたついでにというわけではありませんが、日頃思っていることでもある、公平ということの難しさに触れてみたいと思います。


何か負担を求める時、あるいはまた何か恩恵を与える時、いつもこの「公平に・・・」ということが問題になります。
本当の意味での公平はあり得るのかと言うなら、それは多分ないだろうと私は思います。
それをまたお金の額で決めようとすると、余計に難しくなるような気がします。

例えば、税金の主旨は公平負担です。
しかし私たちは、自分の負担を公平だと納得しているかと問われれば、誰もが首を横に振るでしょう。
国民のだれもが免れ得ない税金の一つに国保税がありますが、これも払えないとなると、生活保護を受けるかと言うことになります。

生活保護を受けると、国保税は免除になって医療費も只になりますから、ギリギリのところで堪えて納税している人と、何らかの理由で生活保護を受ける人との公平がどこで担保されるのか、とてもとても難しい問題だと思います。
仮に批判や非難を受けるべきケースがあったとしても、判定は極めて難しいでしょう。

世の中には、信じられないようなこんな話もあるのですね。 <参照>


一方受け取るということに関しても、公平は難しいのです。
この度の原子力災害では、様々な形で補償がなされていますが、ここでもやはり公平の難しさを見せつけられます。

ちょっと長い記事ですが、大変よくまとめてくださっているこのブログをご覧いただきたい。 <参照>


尤もそんなことばかりではないのでしょうが、そもそも受け取る側に乞食根性が芽生えやすいような補償の出し方にも問題があるのだと思います。
ここにもやはり、先の参照記事の中に出て来る「日本病」と呼ぶべき病巣があるのかも知れません。

最後は、私たち一人一人の、人生に臨む態度にかかっているということでしょうか。