ヒトがヒトでなくなる日

ヒトと野生の動物たちの決定的な違いは、ヒトだけが持っている知能と技能にあることは明白です。
そして恐らくヒトは、同じくらいの体格の他の動物たちと比較して、身体的能力のどの分野においても劣っていることは、これまた明白です。
走っても、跳んでも、持ち上げても、引っ張っても、あるいは噛み砕くアゴの力も、先ず何一つとして野生の動物には勝てません。


世界中のあちこちの先住民の教えにも語られているとおり、この世界で一番弱いヒトが、こうして地上で一番の繁栄を誇っていられるのは、一重に持っている知能と技能のおかげであると言えます。


しかし近年、その知能や技能に、またそれらを統括し裏付けるために必要不可欠な自然に対する感覚に、何やら異変が起こり始めたような気がしています。


ヒトよりずっと強くて、ヒトを容易く自分たちの餌食にしてしまえる肉食獣がいくらでもいる中で、多くの野生の動物たちがヒトを恐れるのは、長い時間をかけてヒトが築いて来た、ヒトと野生の動物たちとの間の良い意味での緊張関係がものを言っているからです。


その一番は、誰でもお分かりになると思いますが、火を焚くことです。
この地球上のヒト以外のあらゆる生き物たちは、まず例外なく火を恐れます。
夜中の野営地で火を焚いてトラの襲撃から身を守った話しは、私の父の体験談でもあります。


そして次は音です。
今私たちが専ら楽しみのために奏でる音楽は、元は神々の世界と交わるために、さらに遡れば、野生の動物たちを驚かせたり、警戒させたり、また逆に安心させたり、誘い寄せたりするために、音を使いこなしたことが始まりです。


例えば、北欧にクゥーラと呼ばれる唱法があります。
叫び声のようにも呼び声のようにも聴こえる歌声は、狼を追い払い、牛などの家畜を呼び寄せることが出来るのです。
世界中にあるそうした音を使いこなす技やそのための道具は、見るにつけ聴くにつけ、全く驚嘆に値します。
ディジュリドゥというオセアニアの先住民の楽器は、その低く唸るような持続音に、たいていの動物(犬や猫も)が警戒態勢をとります。
アフリカの太鼓も、音やリズムに様々な意味があり、特別な力を発揮することもあります。
否、それだけではありません。
ヒトが奏でる音楽に、動物たちが魅惑され酔いしれることさえあるようです。


このように、火を焚き音を発するだけでも相当な威力があると思いますが、ヒトはそれ以外にも沢山の手管を用いて、この地上での優位を確実にすることが出来たのですね。


ところが近年、火は外から全く見えないところで燃やされるようになり、四六時中垂れ流される雑多で無意味な音の洪水でしかない騒音は、もはや動物たちを警戒させることも無くなってしまいました。


加えて何より、未だにヒトの優位を信じて疑わない我々は、家の中で油断しきって過ごしています。
その間にも、野生の動物たちは、どんどんヒトの暮らすエリアに近づき侵入して来ています。
私の家の数100mの範囲には、もう当然のように熊が出没しています。
(姿を見たことはなくても、その証拠はいくらでもあります。)


その一方で、外で火を焚くな!ナイフは凶器になるので所持禁止!大きな音を立てれば近所迷惑!そしてやれ保護獣だ絶滅危惧種だと騒ぎます。


何かが違う!と、私はずっと思っています。
このままでは、やがてヒトがヒトでなくなる日がやって来ると、半ば本気で心配しているのです。
私の世代の者は、ちょうどその臨界点に立っているのじゃないでしょうか。
後の世代に何を伝えるべきか、今さらながらよく考えて行動すべきだと思う私です。

そしてヒトの知能や技能は、自分たちが優位に立つためだけにあるのではなく、他の生き物たちのために役割を果たすためにもあるのだということを、最後に付け加えたいと思います。