高野通信」カテゴリーアーカイブ

過労と失業

過労と失業が同居するおかしな社会。
今この国では、働き過ぎで体の健康を損ない、過労死する人、強いストレスに追い詰められて過労自殺する人が後を絶たないというのに、一方では健康で働く意欲もあるのに就職出来ない人、学校を卒業しても就職口を見つけられない若者も沢山います。

21世紀を迎える直前の日本で、失業率が4%を超えた時、ワーキングシェアと言う言葉を聴いた覚えがあります。
減った仕事を分け合って就労するというその考え方は、例えば、一つの会社に半日ずつ出社して仕事を分け合い、失業する人が出ないようにするというものでした。
それを耳にした時、私はちょうど山暮らしをしていましたが、これはいい考え方だ思ったものです。
半日会社で仕事をして、あとの半日は家庭菜園なんていいじゃないか。
それとも、視野を広げるために、あるいは資格を取るために、勉強するというのもいいのじゃないか。
収入は減るかも知れないが、生活に創意工夫を凝らす意欲を喚起したり、公的支援もあってもいいじゃないかと考えたものです。

しかしその後の日本は、ちっともそんなことにはならず、全く逆の方向に進んで来たように見えます。
少ない就労のチャンスを奪い合い、その結果労働力は買い手市場となり、労働環境は厳しくなる一方。
残業、休日出勤は当たり前、いろいろな手当てのカット、給料の切り下げなども珍しくない現状を見ることになりました。
今、少なからぬ人が置かれている現状とは、いくら働いても貧困から抜け出せない、つまり自分の労働の代価で生存が難しいという状況です。
過労死や過労自殺は、そうした社会が出した結論の一つだと思います。

ワーキングシェアは、どうして実現しなかったのでしょうか。
「21世紀は心の時代」という言葉も同じ頃耳にした覚えがあります。
仕事を分け合うという考え方も、それに連動していたように思います。
でも現実は、全部逆さまになってしまいました。
その理由の一つには、私たち一人一人が何か誘惑に負けて、欲を離れられなかったということがあると思います。
何と言ったら良いのでしょうか、そこには何かとてつもなく邪悪な意思が働いているような気がします。
誰の目にも明らかなように、もうここまで格差が出来てしまったら、一旦獲得した利権を自ら進んで手放す者はいないでしょうから、これからいつまで続くか分かりませんが、ますます競争の熾烈な社会になるでしょう。
はっきり言って、見たくない現実かも知れません。

どんな未来が待っているのか、少なくとも私は、絶望しているわけではありませんが、決して楽観してはいません。
真っ当に努力していても、この商売が続けて行かれなくなることだってあるかも知れません。
そんな時、どうやって生き延びて行こうか。
先ずはその前に、自分の欲求をどこまで減らせるか、それに挑戦したいと思っています。

来客あり、感謝の昨日今日

今日のカフェクラブの集いには、定員オーバーの8人の方がいらしてくださり、にぎやかと言うよりは緩々とした時間を過ごしていただきました。
それに先立って、実は昨日のうちから若い友人たちが3人ほど、泊りがけで来てくれていました。
久しぶりの大人数の食事をして、とりとめのないおしゃべりに花が咲いて、外はすっかり気温が下がって寒いくらいでしたが、あたたかく夜が更けて行きました。
昨日も今日もそうでしたが、私たちのキャラクター故なのでしょうか、人が集っている割には静かなんですね。
でもそれはそれで、こういうのもいいなぁと思います。
参加された方々はどんな印象を持たれたか分かりませんが、私は、こんな感じが好きです。
そうやって、じわっと少しずつ気持ちを温め合う中から、やがて何かを動かす本物の力が生まれて来るような気がするからです。
まあそう言っても、私が何か目論んでいるというわけではありません。
ただ、何かが育って行きそうな、そんな予感がチラと頭をかすめたのでした。
それはそれとして、昨日つくったカリーソースは、皆さんに喜んでいただけたようで、私には何よりうれしいことでした。
ありがとうございました。

ささやかな幸せ


今日は、店の前の道路沿いの空き地の草刈りをしました。
そこは、この家と一緒に借りている場所ですが、年に二度くらいは草刈りをします。
今年は、二度目の草刈りが遅れて大薮になってしまい、ずっと気にしていました。
今日はやっと時間が空いて、2時間くらい作業することが出来ましたが、あと少しというところで草刈り機の燃料が無くなり、終了となりました。
でも、道路沿いの部分はきれいに掃除もして、すっきりと見た目も良くなりました。
それを眺めていたら、何かしみじみと幸せな気分になりました。

こういうことに割く時間があったことの幸せ。
体が動くことの幸せ。
周りがきれいになったことの幸せ。
これで十分と思いましたね。

それで、草刈りしていて気がついたのですが、草茫々にしておくと、空き缶やペットボトルなどが投げ捨てられるのですね。
今日も、2、3個見つけました。
捨てる人がいるんですね・・・。
それだけがちょっと残念でした。

  おしらせ
今週は、木曜日・カネリプッラ、土曜日・クリングラです。
みのりのパンは、土曜日に焼きます。
日曜日は、「カフェクラブの集い」を開催予定です。
時間は、午後2時より。 参加費1000円です。
参加者募集中。 

時事雑感

最近、気の重くなるような嫌な事件が続きます。
昨日、今日のニュースでも、幼い子どもが犠牲になった事件のことが報じられています。
九州の事件では、母親が犯人として逮捕され、世の中はすっかり言葉を失ってしまったかのようです。
これが、ただ単純に当の母親を責めればいいと言うような問題ではないことは、もう誰にでも分かることじゃないかと思います。
一体どうしたと言うのでしょう。
いつの頃からか私たちの社会は、何かとても大切なものを見失ってしまったように思います。
そして、どこかとても恐ろしいところに向かって、落ち続けているような気がします。
折りしも明日は、お彼岸の中日なんですね。
いろいろなことを思って・・・、あとが続けられません。

オーディオ、今昔






この2枚の写真を見て、使っている球と
回路設計に察しがつく方は、相当なマニアです。


音楽好きの私にとって、音源を再生するためのオーディオ機器は必需品です。
思い返せば、中学生の頃にラジオいじりから始まって、その後オーディオに傾倒した私は、友達に頼まれて作った分も合わせて15~16台くらい、真空管のオーディオアンプを製作した覚えがあります。
今は、手元に最後に作った1台がありますが、残念ながら使用していません。
今日ふと思い出して、写真を撮っておこうと引っ張り出して来て開けて見たら、37年前の苦心の跡に思わずニヤリとしてしまいました。
今後再び、このアンプで音楽を鳴らすことがあるかどうか分かりませんが、昔はこんな仕掛けで音を出していたのですね。
まあ昔の話はそのくらいにして・・・。

最近のニュース記事で見かけましたが、今家庭で音楽を聴くためのオーディオ機器の主流は、パソコンだとか!?
確かに、合理的ですねェ。
私だってメインではありませんが、パソコンにCD200枚分くらいの音楽ファイルを入れて、作業しながら聴いたりしていますから。
スピーカーだけ少しいいのにすれば、音質だって上等です。

話しが少し戻りますが、以前の私は、オーディオは絶対アナログに限るとこだわっていたのです。
そして、再生装置も真空管アンプ至上主義。
音源が次々とCD化して行くのを散々にこき下ろして、CDは買うまいと誓ってターンテーブルを回し続けていました。
でもそのうちに、大好きな音楽がCDでしか聴けない状況になって来ました。
また一方で、コンサートの音響を担当したり、録音に立ち会ったりする機会があり、生演奏がどのようにして録音され、編集加工されて音源として発表されるかを知り、生演奏のパフォーマンスにも度々触れるうちに、もう昔のこだわりはどうでも良くなっていました。

それに聴くばかりでは、音楽の楽しみの半分も味わっていませんからね。
下手でも何でも、自分で歌ったり演奏することを忘れたくないですね。
楽器を奏でることは、神さまが人間だけに与えた恩恵なんだそうですから・・・。

木に癒される


ウリハダカエデの紅葉
素敵な音楽と一緒にどうぞ・・・。<こちら>


私にとって、山に住んでいて何がいいかと言うその一番は、木に癒されることです。
今住んでいる場所も、ほどほどに山の中と言う感じで悪くありませんが、以前山暮らしをしていた場所は、どちらかと言うと「鳥と獣の領域」と呼ぶのがふさわしいようなところでした。
その分、まわりの自然のエネルギーが直に伝わって来て、なかなか得難い経験をしたと思っています。

それはもう、実に沢山の種類の木や草花と触れ合いましたが、中でも特に好きだった木の一つは「ウリハダカエデ」。
あちらでは、家のまわりのそこら中どこにでも生えていて、実生もいっぱい目にしていました。
木肌が瓜のように、緑色に黒い縞模様が入っていて、中は年輪のない白っぽい木質で、薪にして燃やすととんでもない汗臭い臭いが鼻を突くのですが、紅葉がとても優しく美しいことは他に比類がありません。

こちらに来てからは、ほとんど見かけることがなくて寂しい思いをしていましたが、二年ほど前、飯豊の登山口から少し山に入ったあたりで久しぶりに見かけた時は、旧友に会った時のように胸が熱くなり、思わず木肌を撫でていました。

このところずっと忙しくて疲れ気味ですけど、こんなことを思い出すだけでも、少し元気になれるような気がして来るのです。
木と気心を通わせた記憶は、どこにいてもどんな時でも、自分の心を癒してくれるのですね。
また山に行って来ようと思っています。

競争社会に物申す。

このところ世の中を騒がせているのが、汚染事故米の不正転売事件です。
かの三笠フーズのやり口は、心底悪質だと思いますが、こんな業者が出て来る体質というか背景は、この国全体にあると私は思います。
あれだけのことをしてバレないと思っていたとしたら、それはよほどの愚か者ですが、案外そこまで油断していられるほど、業界全体が汚い体質だということでしょうか?
そう、政界も巻き込んで・・・。
そして、中身のことも造り手のことも考えず、ただ安値ばかりを歓迎する消費者の側にも、責任の一端があると思います。
ものごとを競争原理に委ねることは、良い結果を生まないことの方がむしろ多いと、私は、ずっとそう思って来ましたが、こうした事件がいつまでもなくならないどころか、ますます多く、悪質になって行く状況に触れると、まさに、勝つために手段は選ばない!生き残るためには何でもするさ!という感覚が、この日本の社会全体に染み渡ってきた証拠じゃないかと思いますね。
悪だくみをしてボロ儲けする者がいれば、それをネタに脅して金を巻き上げたり、わざとバラして潰しにかかったり、そうやって醜い争いで潰し合って競争相手が減るのを、余裕で高みの見物をしている、更に長けた者がいたりするのでしょうね。
パン屋の業界がどんなだか知りませんが、食工房なんかとっくに土俵の外ですから、全く関係ありません。
食品の信頼が揺らぎ続ける今、正直な業者まで疑われて迷惑だという論調もありますが、私などはどうぞご勝手に!と思っています。
正直の上に「バカ」を付けてもらって結構!
この時代には、それが勲章みたいなものだと思っています。

お空眺めのススメ


イラスト・Machiko


日が短くなり、空気も澄んで、空には星の数が増える秋の夜。
たまにはお空眺めなどいかがですか。
つい先日は中秋の名月でしたから、夜空を見上げた方も多かったと思いますが、これから一晩毎に月が欠けて夜空が暗さを増すに連れ、星の数が増えて行きます。
街明かりで星も見えない大都会の方にはお気の毒ですが、それでもちょっと街の外に出れば、意外なくらい星が見えることでしょう。

以前山暮らしをしていた場所では、秋の夜の星空のドラマチックなことは、例えようもないほどでした。
懐中電灯の明かりを空に向けると、一本の光の筋になって空の向うの星まで届きます。
そうやってあっちの星、こっちの星を指して、子ども達に星座の見方を教えたものです。

今頃は早い時間には、ヴェガ、アルタイル、デネブが形作る夏の大三角形が中天にかかり、夏の星座が空を支配しています。
よく見ると西の空には、とっくに過ぎてしまった春の空に輝いていた星々が、山の端に沈もうとしています。
振り返ると東の空には、これから主役になる秋の星座達が控えています。
北の空にはカシオペヤが高度を増し、東中央にはペガスス・アンドロメダが連なって大四角形を形作っています。
その下には、プレアデス星団(すばる)の星の固まりも・・・。
山暮らしの頃は、もう当たり前のようにアンドロメダ星雲も肉眼で見えていましたが、ここではちょっと微妙です。
それに私も、すっかり老眼になってしまいましたし。

でも、そんなお空眺めの楽しみを倍増してくれる小道具があります。双眼鏡です。
対物口径は大きく、倍率は低い方が星空観察用には向いています。
50mm/7~10倍の双眼鏡で眺める星空は、星の数が一挙に数百倍になって、まるで宇宙船に乗って宇宙空間に飛び出したように、心を奪われてしまいます。
かのアンドロメダ星雲も、息を呑むほどダイナミックに見えます。

外にいても、まだ寒さを感じるほどではない今頃、一晩星を眺めて過ごしたいと思っている私です。

  追加更新

    食工房よりおしらせ
今週は、木曜日・クリングラ、土曜日・カネリプッラです。

  食工房ホームページより・・・
雑貨の部屋に、Blue Lace 秋物新作の写真入り記事をアップしました。
<こちら>からご覧いただけます。

自分の命は自分で守る

今の私たちにとって、最大の関心事の一つは「心身の健康」、そしてこれから先をどうやって健全に生きのびて行くかということじゃないかと思います。

一昨日、「見せかけの自由選択と自己責任」という記事を書きましたが、それに関連して今そしてこれから先の時代に、最も重みのある響きを持つキーワードは、「自分の命は自分で守る」ということになると思います。

この格差の時代にあって、個々人の命の守り方もいろいろ違ってくると思います。
例えば、病気という脅威に対して、ある人は望める限りの高度な医療に委ねようとするでしょう。
一方、その機会に恵まれない人もいて、その場合は命の覚悟を迫られることもあるかも知れません。

この国で、それもこれから老齢期を迎える私の世代の者は、必ずしも福祉に頼るわけに行かず、自分の命を自分で守るしかないところに投げ出されることになるだろうと思っています。
その時、十分な資産を蓄えている人には、いくつかの選択肢があるでしょう。
でも、私のように毎日を食いつなぐのが精一杯の人間には、多分選択の余地はありません。

私にとって、残される一つにして最高の希望の道は、この母なる大地の懐に身を委ね、寄り添い、己の命に覚悟を決めて生きることです。
だから、食と健康のこと、生活習慣と健康のこと、自然の営みと成り立ちについて、諸々勉強することに対して貪欲なことでは、誰にも負けないと思っています。

そうやって勉強したことが、ひょっとして多くの方のお役に立つことがあるかも知れない、発表しようかと思うこともあるのですが、そんなことをして明日にもぽっくり死んでしまったら説得力も何も無く、ただの恥さらしですから、やっぱりもう少し勉強が足りるまで、今はまだ黙っていようと思います。

そうですね、もし私がいい死に方をしたら誰かに拾い上げてもらえるよう、書き残しておこうかなと思っています。
その前に、先ずはその逆にならないよう、心がけなくてはなりませんね。

見せかけの自由選択と自己責任

「見せかけの自由選択と自己責任」。
今、そしてこれからの時代を、象徴的に言い表そうとするならこういうことになると、私は思っています。
本来なら、自由選択と自己責任、それは個人の生き方として、社会のあり方として、一つの理想かも知れません。
しかし今の社会で、否世界で、本当に自由な選択が可能なのか、あるいは許されているのか、それが確実に保証されなければ、あとに続く自己責任を問うことは出来ませんね。

今この国では、規制緩和の名の元に何もかもを競争に委ねようとしています。
「自由競争」と言う言葉が、如何にも説得力のある響きを持って語られますが、その自由とはどういう意味なのでしょう。
全ての人に平等なチャンスの下に競う、と言うのが本来の意味でしょうか。
それならそれでいいかも知れませんが、本当にチャンスは平等なのでしょうか。
そうじゃないことは、もうバレバレですね。
かなり嫌味な言い方ですけれど、自由競争の「自由」とは、勝つためにはどんな手段を使おうと「自由」、勝者がさらに勝ち続けるために、どのようにルールを変えるのも「自由」、そんな風にしか思えません。

今ますます、「金」の力で全てが動く社会になりつつある中、政治はもはや経済に対して干渉する力を失っているように見えます。
そんな時代に私たちは、何の保護も規制もないところに投げ出されて、自由とは名ばかりの選択を次々と迫られ、自己責任だけが問われることになりそうな気がしています。
そんな時代の到来を感じる今、自分にとって「幸福」とは何か、実は一人一人の幸福論が、この世界の命運を分けているのだと気づいた私です。