苦悩する福島

震災以来一年間、身の回りあるいは伝わって来る便りなどに触れながら感じたことです。

地震発生後、原発の状況を予測して、ほとんど間をおかずに避難行動を起こした人、爆発の第一報を聞いて福島県を脱出した人、しばらくは留まったものの結局県外に避難した人、妻子を避難させたが自分は残っているという人、一時避難したものの早々と戻って来た人、ずっとどこにも避難しなかった人・・・、放射能に対する人々の行動は、本当に様々でした。


そして決して、どれが正解ということは言えないのですね。


もちろん、警戒区域に指定され避難指示を出された人は、是非なく直ちに避難したことは言うまでもありません。
(それでもなお、隠れて居残っていた人もいたのですが・・・。)


しかし自主避難に関しては、そこに一つの傾向があるように思います。


素早く避難の決断をした人の多くは、福島の生まれ育ちではなく、他所から移住して来ていた人でした。


それに対して、ずっと居続けた人はたいてい地元の人です。


年齢によっても違いがあります。
職業によっても違いがあります。


若い人達、とりわけ小さい子どもを抱えている家族は、早い決断をしています。


会社勤め、自営業、農業、言わなくてもお分かりと思いますが、農業の人は、ほとんど動きませんでした。


世の中には、この際福島県は全員避難させるべきと言う極端な考えもあるのです。


もし国と東電が本気になって取り組むなら、それも可能かもしれません。
でも、それが今回の原子力災害への正しい対応だとは思いませんし、命を大切にすることでもないと私は思います。


人は、思っているよりもずっと土地に縛られて生きている、否、言い方を変えれば、大地と深い絆で結ばれて生かされている、だからそこを離れることは生きることそのものへの不安につながります。


また、一度そこを離れればもう二度と戻って来ることはないかも知れないのですから、その精神的苦痛に耐えられない人も当然いるでしょう。


警戒区域から頑なに出ようとしなかった人のことが話題になったことがありましたが、その気持ちは痛いほど分かります。
勝手なことをするなと非難するのは簡単ですが、そういう人の気持ちを切り捨ててしまうことは、私には正しいとは思えません。


避難した人も留まった人も、皆それぞれの理由で行動しています。


そしてそこには人それぞれに人の数だけ深い悩みと苦しみがあったということは、誰も外に向かっては言わないのですね。


福島の人は、何でもっと怒らないんだ!とよく言われます。


そんな簡単じゃないんだ、と私も他の誰もが思っているはずです。


福島を外から見たのでは分からないことが、多分あるのだと思っています。


福島県は広いです。


原発がある浜通り、高速道路と新幹線が通る福島のメインルート中通り、そして西半分を占める会津の三地域からなっています。


言うまでもなく地震と津波と放射能の三重苦に見舞われた浜通り、津波こそなかったけれど放射能汚染の苦汁を舐めている中通り、そして比較すれば被害の軽かった会津、それぞれの立場の間には微妙なすれ違いや対立もないわけではありません。


会津に避難してホッとしている浜通りの人がいるかと思うと、会津さえ危険だと一早く脱出して行った人もいます。

細々としたことは、ここでは申し上げられませんが、福島の中も残念ながら一つではないのです。


そして一年経っても、まだ何も結論が出せないもどかしさ、どこまでいつまでとも分からない果てしの無さに、まだまだ先まで苦悩し続けるしかない私たちです。