空洞化

空洞化という言葉が使われだしてから、もうずい分時間が経っていると思います。

この時代、もういろいろなところでこの空洞化が言われていますが、私はここに至って今度は、人間そのものの空洞化が起こり始めたのではないかと思っています。
人一人の全人格と言うか、パーソナリティーの空洞化です。


例えば一つ今思い当たっていることは、こんなことです。


まず人間の一番の特質は何かと言われたら、それは智恵を持っていることだと答えるでしょう。
人間は、智恵のおかげでこの地上世界での優位を獲得し、以後その地位はますます揺るぎなく繁栄を誇って来ました。


そして智恵の行使によって私たちが得ることの出来た、この世界の様々な事象に関する知識は、もはや膨大な量に達しています。


私たちは、大方それを共有しており、生存のためのありとあらゆる局面に利用出来るのですね。


ところでその智恵の尤もたるところは、何かを発見したり考えついたりする能力(賢さという言い方もありますね。)だと思うのですが、最近それが怪しくなって来ているのではないかと思うのです。


私たちはもはや、その膨大な知識つまり知的資産のおかげで、新たに自分で考えついたり発見しなくても、日常の生活に不自由することは無いのですね。


それどころか、すでにある知識の恩恵ですら、全てを受け取ることは不可能なほど膨大です。
私たちは、先ずすでにあるものを知ることに、人生の大半の時間を割かなくてはなりません。
教育と言う名のそのプログラムは、幼少期から成人に達するまで延々と続きます。


記憶は、人間の脳の持つ能力の中で大変重要なものに違いはありませんが、その記憶もコンピューターの出現によって、アウトソーシングが可能になったのですね。
つまり一々自分の記憶力に頼らなくても、必要な情報にいつでもアクセス出来るわけです。


しかしです。
ただ情報としての知識の量を増やすことが、発見する能力や発案する能力に結びつくかと言うなら、それはNO!です。


発見や発案には、感性と直感力が欠かせませんから。
そしてそれらを養うには、とても間接的な方法しかないということです。
何故ならそれは、その人が出生直後からこの世界でどのように過ごしたか、どんな物事に触れたか、つまり体験からしか出て来ないものであり、しかもどんな体験が何の役に立つか、そこには決まりきった法則など存在しないからです。


最近の私たちは、いろいろなことを知っているという、人間として外側に見える部分が肥大化する一方で、何も知らなくても自分で考えついたり発見したりする能力は、逆に痩せ細る一方のように見えます。
本来、智恵という人間の一番の資質の中心に備わっているはずのそれが、どんどん貧弱になっている・・・、つまり空洞化たる所以です。


これから先を生きる子ども達のこと、とてもとても気になります。
一時代前を生きて来た私たちの世代が果たさなくてはならない役割と責任は、思っている以上に重大且つ緊急性を帯びていると思っている私です。



子どもは、遊びの中で実は物理や化学の法則を学んでいる。