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明日と明後日は定休日

ここ数日、冬に逆戻りしたような降雪の日々です。
とは言え、日が長くなって来ており、お天気の変わりやすさからも春の中の変化だと受け止めています。

今週は、悪天候の割にはご来店のお客さまも案外お見えになって、商品棚もすき間が多い状態で定休日前の今日を迎えました。

というわけで、明日と明後日の二日間、食工房は定休日休業です。

これからしばらくの間、3月17日(日)の定例総会が終わるまで、そしてその後役員の引継ぎ作業が終わるまで、忙しい日程です。

キャッシュレス決済の操作にも慣れなくてはなりませんので、トレーニングモードでレジの練習です。

それからまた27日には、農業委員会で今年の作付けについての聞き取り面談があり、出席しなくてはなりません。

うーん・・・、高知に行くタイミングが掴めるでしょうか。
微妙です。

足踏みする春

1月から2月にかけて、降雪も少なく暖かい日が度々あり、今年の春が速いことを窺わせていました。
実際、2月のうちに福寿草も咲きはじめ、小鳥たちのさえずりもにぎやかになりました。

ところが3月になった今日を含めて、数日前からこの先一週間くらい、お天気は雨または雪で気温も低めの予想です。

一方昨年の今頃は、根雪がしっかり残っていましたが、晴天で気持ちの良い日が続いていました。

このように、毎年毎年予測の付かないお天気模様になるので、作物を育てるのも一種賭け事みたいなところがありますね。
まあ、吉と出るか凶と出るか、収穫が終わって見るまで分かりません。

この背景には、地球温暖化があることは確かです。
それが人類によるCO2 排出が原因とする説には一概に同意しかねますが、今後地球環境が激動することは間違いないと思いますから、農業に携わる者はいっそう注意深くまわりの自然を観察していなくてはならないと思っています。

必ず対処への道は開けるはずと信じています。

集落会計の決算作業、食工房の確定申告の準備終わる

ここしばらく時間を取られていた会計仕事が一段落しました。

集落の会計の方は、決算と総会資料の作成も終わり、後はこの次の日曜日に予定されている会計監査を受ければ、私の任務は終わります。

一方食工房の会計も、下の娘が日常の記帳を確実にやってくれましたので、私は決算作業と申告書の作成を今日までに終わらせました。

今日の午後、商工会に持ち込んで事前チェックをしてもらい、一部訂正箇所を直せば提出できる見通しとなりました。

あとは、集落の定例総会と新任の会計さんへの引継ぎが終われば、高知に出かけるタイミングがつかめるのではないかと楽しみにしています。

忙しさ山積み、でも高知に行きたい

南国土佐の空の下から

2018.05.10 高知市南嶺鷲尾山頂上より太平洋を望む

コロナ前まで、大体毎年のように郷里の高知に出かけていました。
コロナ禍になって早や丸4年、その前の年から通算5年間、郷里の土を踏んでいません。

私はここ会津を最後の居住地と決めましたので、別な意味ではここが新たな郷里となりました。
ということは、私には二つの郷里があるということです。
その二つの場所に、心と体を二分されるような感覚をいつも味わっています。

5年も離れていると、何か恋焦がれるような気持に駆り立てられます。
そして、今後年齢が進むに連れ、いつまで長旅に耐えて高知に行けるだろうか?と思うのですね。
また縁ある人たちも、いつまで健在だろうか・・・、そんなことも頭の隅を掠めます。

3月は特別忙しい時期ですが、高知に行くとしたら、やっぱり3月しかないのです。
何とかして、いつ行こうか、思案している私です。

サルの群れ現る

近頃サルの姿を見かけることがありませんでした。
でも、もうそろそろ現れるんじゃないかな・・・と思っていました。

お昼過ぎのことでしたが、買い物に出かけて行った娘から電話がかかって来ました。
集落の外れにサルの群れがいて移動中だと。

ふむふむ、これはいいタイミングだ、こちらに侵入して来るところにお出迎えしてやろうと、ロケット花火など一式用意して現場に向かいました。

私が辿り着く頃には、すでに集落に近付いていて、数匹の姿を確認しました。
ただ、そこで追い払い作業をしても、山の中に四散した後私が引き揚げればまたすぐ集まってくることは確実なので、そのままもう少し引き寄せることにして、やって来そうな位置に先回りしました。

すると、先頭のサルがもう近くまでやって来ていました。
しかし、こちらの対応に気が付いたのかサルの動きが遅いので、一旦家に戻り一時間くらい置いて再び現場に向かいました。

今度は直近で沢山のサルの姿を認めましたので、追い払いにかかりました。
山の方に向かって追い払い、さらに逃げて行った方に先回りしてそこからまた追い払い、そんなことを繰り返しているうちに、山の藪の際まで来てしまいました。

これ以上は、クマもいるかも知れず危険なので、そこまでにして帰って来ました。

まあでも、逃げてもすぐまた戻って来ることは確かで、ロケット花火の音なんかもう平気なのですね。
要するに私がしつこく追い回すのが鬱陶しいだけで、いなくなれば全く何も警戒なんかしていないのだと思います。

畜生!
これ以上はもう効き目は無いのでしょうね。

何か痛い目に、あるいは危険な目に合わせる必要があるのですが、我々にどこまで出来るか、許されているのか、それが問題です。

平和を守るための武力

「戦争を回避するためにこそ武力が必要。」

そんな言葉を、以前の私はとても信じられませんでした。
詭弁以外の何物でもないと掃き捨てたものです。

戦争を回避するなら先ず武装解除が優先、日本の憲法9条が世界に広まらなくては・・・、などと思っていたのですね。

しかしその後、歳を経るに連れ、そうばかりでもないかも知れないと思うようになりました。

また昨日までの続きになりますが、世界には最後まで人の善意を信じるという人がいる一方、人の善意など最初から信じないという人がいて、それぞれ世界の半々を占めているのです。

と言うか、私たち一人一人の心の中に、その二つの側面が相半ばして同居しています。
である以上、どことも誰とも争うことなく平和を実現することは、単なる理想に過ぎず永遠に実現することはありません。

少し話が逸れるかも知れませんが、他者に争いの刃を向けるのは、自身の心の中の戦いに敗れたからです。
ま、それは置いて。

悪い奴らは、強そうな相手には手を出しません。
否、実際そんな低レベルの理由によって、戦争を回避出来ているのではありませんか。

アメリカやイギリス、フランス、ドイツなどが、戦禍に見舞われないのは強い軍事力を持っているから、他に理由なんかありません。
そして戦争を避けるために、欧州各国はこぞってNATOに入りたいのですね。
武力が背景であることは疑う余地がありません。

我が国日本だって同じことです。
他ならぬロシアやまた中国や北朝鮮が手を出さないのは、アメリカの核の傘の下にいることとそして安全保障上の同盟国だからです。
他に理由はありません。

未来永劫、どこまで行っても人類世界は不完全です。
先に申し上げた二面性が無くなることはありません。

だから我々は、銃と花束の両方を携えて前進するしかないのです。

戦う覚悟を召されよ

以前、「世界が平和であるためには、一人一人の心の中が平和でなくてはならない。」という言葉を紹介したことがあります。<参照>

全くその通りに違いないのですが、どうしてもその平和を壊したい者がいる、それがこの世界の実相です。

「平和を願わないものはいない。」
この言葉に多少の異論があるだろうと申し上げたのは、その事が脳裏にあったからです。

昨日の続きになりますが、ロシアによるウクライナへの侵略戦争を見ると、平和を願うだけでは平和は実現しないこともある、それが現実だということが分かります。

平和な心に刃を向けて来る者がいるなら、それを払い除けなくてはならないし、場合によっては相手を倒さなくてはならないでしょう。

非暴力無抵抗は、態度としては立派であっても、問題解決の方法にはなりません。

平和を壊そうとする者たちの暴力は制止されるべきです。
そのために戦うことはあって然るべきでしょう。

取り敢えず今は平和な我が国ですが、予めそうした覚悟を自覚しておくことは、とても重要な一面であると思う私です。

世界の命運は、ロシアをどう始末するかにかかっている

ロシアがウクライナに侵攻して以来間もなく2年になります。
これが単なる地域紛争ではないことを、ずっと申し上げて来ましたが、その通りになって来たと思っています。

もはや、世界はとても不安定になり、あちこちで火の手が上がり始めました。
事の発端を見ても分かる通り、ロシアは悪い国です。

と言うより、ロシアは近代国家ではありません。
中世または近世の頃の世界の価値観から一歩も前進していません。

国家の発展と繁栄は、領土の拡張と他国を支配することによってのみもたらされるものと言う価値観です。
プーチンの言動を見ていると、それが噓でないことがよく分かります。

戦争に明け暮れ、次に植民地主義に猛進し、二度の世界大戦を経て、やっと欧州諸国が気づいたことは、対等互恵の世界を作らない限り、お互い発展も繁栄も望めないということでした。

世界の潮流は、概ねこの方向に向かっています。

その21世紀の世界の中で、主権国家に言いがかかりをつけて侵略戦争を仕掛けるのですから、これが害悪でなくて何だと言うのでしょう。
これがまかり通れば、迷惑はかけ得、奪い取ったものは我がもの、勝ちさえすれば裁かれることもないということになります。

そしてこれは、単に独裁者プーチンを始末すればいいというような問題ではありません。
ロシア国民のためにも、ロシアという国家をどう始末するのかそこに踏み込まなくては、そこに世界の命運がかかっている重大事なのです。

いやいや、ロシアだけではないと思います。
我々自由民主主義、対等互恵を標榜する者にとって向かい合わなくてはならない国は、他にもまだいくつかあるのではないでしょうか。

このまま煮え切らない対応をし続ければ、もう一度世界は大戦に引きずり込まれるであろうことは間違いありません。

先ずはウクライナに勝利を与えることです。
そのために世界は支援を惜しんではならないし、ロシアに組する勢力には厳しい対応が必要だと思っています。


ポプラの傍

いつものことをいつものように

いつものことをいつものように・・・、若い頃はそれが耐えられなかったのですね。
逆に、いつも何かしらの変化を求めるのは、若者の特権かも知れません。

明日はまたいつものようにパン焼きです。
酵母種にとって、安定した状態の下にあることは、必須中の必須条件です。
つまり、いつものようでなくては困るのですね。
少しの気まぐれも許してもらえない、それが微生物との付き合いなわけです。

私も、還暦を過ぎたあたりから感覚が変わって、日常の大切さを思うようになりました。
その分、次々新しいことに手を出す意欲が減じたことは自覚しています。

まあ、人生70年も生きていれば、いろいろな物事に対し、何でもいい、どうでもいい、と言うわけには行かなくなります。
知見の深まりは結果的にこだわりを生み、一方で自由を失います。
その代わり、いつも良い結果だけを得られる(失敗しなくなる)ようになるのですね。

こうして歳をとってみると、どれだけ広い世界に住んでいられるかは、結局若い時の過ごし方にかかっているのだなと分かります。

果たして自分はどうだったか?
若い人たちと交流して見れば、それが分かるのでしょうね。

あと何年・・・、人生最後の章を歩んでいるのだと自覚する私です。

獣の気配が遠いのが不気味

今年は春が早いようです。
もう山も畑も雪に覆われているところはありません。

獣たちの活動も始まるだろうと思い、トレイルカメラを仕掛けたり見回りをして、足跡や糞など痕跡の発見に努めていますが、今のところ何もみつかりません。

少し前にクマの糞と足跡を見つけたことを報告しましたが、それ以降は全く何もありません。
クマもイノシシもサルも、皆、山の方に行っているのでしょうか。
人里に出て来ても、畑に何もないことを学習済みということかも知れませんね。

一方、タヌキやキツネなど小動物は、いつも人里の近くにいるようです。
カメラには、それこそ毎夜その姿が映っています。

それから面白いのは、藪に覆われた山の周辺には野ウサギがいますね。
少し山に寄った個所に設置したトレイルカメラには、野ウサギの姿がよく撮影されています。

畑の周りでは見たことがありません。
きれいに刈り払われている場所は、キツネなどに見つかりやすく逃げ隠れも出来ないからでしょうね。

一方でそういう所にはクマがいる可能性も高いのですね。
いずれそのうちに、またあちこちに出没するだろうと思っていますから、決して油断はしていません。

電気柵その他の対応策を常に考えています。
そして、冬枯れで見通しが良い今のうちに、出来るだけ広い範囲にこちらの縄張りを主張する印を付けておくことです。

そのために、獣たちの気持ちを想像しながら、どうしたら嫌がられるか恐れられねか、また騙すことが出来るか、せいぜい頭を使うことだと思っている私です。