投稿者「mikio aoki」のアーカイブ

デジタル技術と人類の関係

ちょっと大きく出たなという感じのタイトルですが・・・。
まあお付き合いください。


先ず、デジタル技術の効用は何かと言えば・・・。

正確なコピーを、高速大量に作ることが出来る。
しかも、何度コピーを繰り返しても情報の質が劣化しない。
高密度の情報の保存が可能。
保存された情報の検索を、非常に高速に行える。

そして、このデジタル技術の実行に欠かせないのが、コンピューターです。
今やPCの普及で、コンピューターは私たちの日常に役立ち、またいろいろな側面で個々人の道具として、無くてはならないほどの存在になりつつあります。

とまあこんなことは、私が言うまでもないことかも知れません。


私がここで予感するのは、PCを使って作られ保存され蓄積された情報が、確実に私たちの物の考え方や人としての性格付けにまで、大きく影響を与えるようになるだろうということです。

何故そんなことを思うかと言うと、例えば記憶ということを考えてみてください。
私たち人間の記憶くらい当てにならないものはない、とよく言われますね。
いや実際、物事を正確に覚えていようと思うと、本当に大変です。
たいていの場合、今までだったら忘れたら困ることは、紙に書いておくとかしたわけです。
それでも、書いたものを失くしたり、書いたこと自体を忘れてしまうことだってありますね。
似たような出来事が交錯して、記憶の中身が入れ替わっていたなんてことも、そう珍しいことではありません。
そんな記憶の曖昧さも、場合によっては会話が弾むきっかけにもなり、あるいはまた争いの種になることもあったわけです。


この時代、それが画期的に変化していますね。
私たちは、公開されたデータベースを使って、十年前の今日が何曜日で、お天気はどうだったか、どんな出来事があったか、たちどころに明らかにすることが可能です。
そして個々人においても、データとして保存さえしておけば、何年何月何日の夕食に何を食べたか、その時誰かお客さまがいたかどうかなど、そんな詳細なことまでも瞬時に引き合いに出せるのです。

これからは、「そんなことは覚えていない。」と言い訳しても、サッと証拠を見せられて尻尾をつかまれるということになりますね。
そういう意味で、何事も正確を期そうと思えばいくらでもデータを出せる状況が、段々実現しつつあるわけです。
私たちの多くが、毎日あるいは時々でも、こうしてブログを書いて、時には写真入りで、こうしたデータがどんどん蓄積されると、それを記憶の道具として使うようになります。
実際私も、過去の記事を見て記憶を新たにするということが、度々ありますから。

そうです。
このPCシステムは、人間の脳に対しての外付けディスクの役割を果たすようになりつつあるのではないでしょうか。
私たちは、極端な話、物事の詳細な記憶の大半をPCに入れて、入れたということだけ覚えておけば良いことになるのではないか。
その時興味の湧かないことは、安心して忘れてしまえる。
そして必要な時には、正確な情報をすぐに提示出来る。

そうなると、人の頭の使い方も変わってくるのじゃないかと思うのです。
どんなふうに・・・かは、いろいろ想像が巡ってまとまりませんが、何か人類の本質に関わるような変化が起こりはしないか?と、そんなことを考えてしまう私です。



4ギガバイトのUSBフラッシュメモリー

ほぼ毎日書いている、このブログ2年分のデータが100MBにも達していませんから、
このメモリーの中には優に80年分のブログ記事が収まってしまいます。

コーヒー焙煎、忙しくなりそうです。

今週は、個人のお客さま用、お店の営業用それぞれ複数のご注文をいただき、昨日から作業しています。
二日に分けましたので、一日当たりの仕事量は少ないのですが、その分畑仕事や草刈りをやっているので、体は休まりません。
でもまあ、パン焼きやスコーン焼きの緊張感から比べれば、コーヒー焙煎はまだ幾分呑気にしていられます。
草刈りは、誰に責任を負っているわけではないので、さらに気楽でレクレーションみたいなものです。
それより、来週にかけてさらに大量のご注文をいただいているので、もう今からハンドピックをいつやるかで気をもんでいます。
さてここで。
先週出したクイズの正解です。
画像をご覧いただきましょう。



 


写真なので、若干の見間違いや見落としがあるかも知れませんが、数的には合っていると思います。
正解は53粒です。


モカの産地として有名なエチオピアのシダモ地区の女性たちは、日給50円(0.5ドル)で一日8時間、このハンドピックをやっているとか・・・。
何だか気が遠くなりそうな話しです。


 


 



 


当分忙しい状況が続きそうなので、上手に合間を縫ってセルフヒーリングしておかないと、どこかでパッタリとブレイクしてしまうことになりそうです。
と言うわけでちょっとの間に、本当に久しぶりに河原に行きました。
道々、苗の植わった田んぼと、その向こうの川沿いの土手を眺めながら、「ああ、なんていいところに住んでいるんだろう!」とうれしくなりました。
川に下りて行くと、お顔たちは皆姿が無くなっていました。当たり前ですね。
半年以上も行かない間に、何度も大水が出ているのですから・・・。
でも、どの石だったかはすぐに分かりましたので、またお顔を作って来ました。



 



 



 



以前とはちょっと表情が違うでしょうか。


今日はあともう一つ、ちょっとしたハプニングがありました。
物置に使っている、道路向かいの小屋の入口の軒下に、スズメバチが巣を作り始めているのを発見。



10粒の卵が産まれていました。


本当を言うと、スズメバチは私が特別敬意を払っている昆虫なので、そのままにして置きたかったのですが、そうするとこれから秋を過ぎる頃まで物置に出入りが出来なくなりますし、ちょうど真下がお客さまの駐車スペースにもなっていますし、ここは止むを得ず死んでいただきました。

巣には女王蜂が一匹だけ、最初の産卵を終えたばかりでした。

暗くなるまで

夏至まであと半月余り、さすがに日が長くなりました。
午後7時でも、外で作業するのに全く支障がありません。
日中より涼しくて動きやすいので、畑仕事は夕方からになります。
このあたりのおばあちゃんも、お勤めから帰って来たお父さんも、あっちに一人こっちに一人、姿を見かけます。

今日は午前中、草刈りを少しやっておきました。
日中は、休日返上でコーヒー焙煎のお仕事。
そして夕方から畑へ。

きゅうりとかぼちゃの苗を定植し、刈っておいた草を敷き詰めて地面が乾燥しないように計らいました。
何しろ雨が降りません。
一昨日降ったわずかばかりの雨は、植物たちの成長の助けになるほどではありませんでした。
こういう時でも、雑草は強いですね。
その雑草を刈り取って、弱い作物の保護に役立てるのが人間の知恵。
やり過ぎない程度に、上手く使って行くのが上農の心得でしょうか・・・。

夢中になってやっているうちに、いつの間にかあたりは暗くなって、街灯が灯っていました。
見上げれば、空にはおぼろに上弦を一日過ぎたくらいの月が・・・。
そして今日は、無事PCも復旧しました。
かくして、やることがいっぱいあって目が回りそうな一日も、やっと終わりです。

沼ノ平、麦畑通信・3

今日は、夕方少し早めに仕事を切り上げて、沼ノ平の麦畑の様子を見に行って来ました。
前回見に行ったのが5月10日でしたから、3週間ほど経過しています。
たどり着くとそこには、まだまだ先の事だと思っていた光景が広がっていました。



さわさわと風に揺れる姿に、何故か心騒ぐライ麦畑



細長くて禾(ノギ)が長いのがライ麦の穂の特徴です。



小麦はずっと丈が低く、穂先もズングリしています。



もうすでに開花後のようです。
これから実が入って来ます。



ライ麦は人の背丈近くに伸び、穂が付いていました。
穂が、ちょうど目の高さです。
小麦も穂を付けていて、こちらはすでに開花したようです。
草丈は、70cmくらいの高さに伸びていました。
これから刈り取りまで約二ヶ月、7月に入ると少しずつ黄色みを帯びて、麦秋と呼ばれる風景が見られます。


おかげさまで、この地元でとれる小麦への皆さまの関心は上々で、最近、飯豊山食パンの販売が目立って順調です。
それで今年の収穫ですが、まだまだ手探り状態でのスタートでしたので、それほど量が見込めません。
もう早々から足りなさそうな気配です。
来年分は、もっと思い切って作付けをお願いしたいと思っています。
この店の前の畑でも来年の今頃、ひょっとすると小麦の穂が風になびいているかも知れません。

突然のPCトラブル

今日は、「カフェクラブの集い」に4名様のご参加をいただき、オリジナルカリーソースやスパイシーマサラチャイ、そしてエスプレッソコーヒーなどを楽しんでいただきました。

今回、私は自分で思ったより疲れていたのかも知れません。
料理の出来が、今一つ満足ではありませんでした。
ご参加くださった方々には、ちよっと申し訳なかったと後悔しています。

それとは関係ないと思いますが、夕方PCに向かったところ、ディスプレーモニターが死んでいました。
もう全く電源も何も入らず、お手上げ状態で参りました。
買ってまだ二ヶ月にもならないのにと、一時パニックになりかけましたが、気を取り直してサポートサービスに電話を入れたところ、親切丁寧に対応していただき、結局代替え新品の手配をしていただくことになりました。
こういう時は、さすがに新品購入のメリットがありがたく思えます。

とりあえず、ノートPCがバックアップする体制をとっていますので、業務に支障はありません。
こんな時に限ってメールでご注文が入ったりするので・・・と開いてみたら、2件ご注文のメールが舞い込んでいました。
ありがとうございます。


「すべては善きことのために計らわれている。」と信じて歩いています。

食糧危機は、現実の問題

飯豊の空の下から・・・

昨日届いた「ナショナルジオグラフィック」2009年6月号の表紙です。
「特別リポート・止まらない、世界の食糧危機」という見出しに目を奪われました。
皆さんの食生活に直結するパン屋という仕事をしている以上、どうしたって重大な関心を払わないわけには行きません。
そう思って記事を読み進めるうちに、これはやがてやって来る問題などではなく、もうすでに現実となっている問題であることに理解が及びました。
皆さんも、機会があればこの「ナショナルジオグラフィック」2009年6月号を、ご覧いただきたいと思います。
世界の人口と食糧に関する問題は、実はもうずっと以前から指摘されていたことで、何を今さらと仰る方もいらっしゃるかも知れません。
しかし、今回のこのリポートは、それがこの時代の私たちの現実になってしまったことを教えています。

それらを読んで私は、地球温暖化など環境的要因、食料の取り引きにおける独占や格差など経済的要因、戦争など政治的要因が複雑に関わりあって、食糧が公平に行き渡らないことが、一番大きな問題なのではないかと思いました。

リポートに拠ると、この10年間、世界の食糧消費はほとんどの年で生産量を上回っており、備蓄を取り崩して間に合わせて来たという経緯だそうです。
つまり、すでに量的に足りていない事態なのですね。
とは言え、この日本の私たちの現状を見る限り、食べるものが間に合っていないという実感はありません。

一方世界には、一日を100円以下で生活しなくてはならない最貧層と呼ばれる人々が十億人いて、この人たちは収入の50~70%を食費に充てなければならず、到底満足に食べられるという現状ではありません。
すでに絶対量が不足しているのに、腹いっぱい食べる人たちがいれば、一方には必ず飢える人が出るのは間違いないことですね。

そうやって考えると、この日本ではまだまだ食料品は安いと言えます。
しかしいつまでもそれが保証されるかどうか、それはこの国の食糧政策にかかっていると言えます。
当然、自給自足の方向に向かわなくてはなりませんが、果たしてどうでしょうか・・・?
農業政策は、本当にこの日本の国土事情にあったプランになっているでしょうか。
また国産小麦の記事<参照>の中でも申し上げましたが、逆ザヤ取り引きや政府補てんの在り方は適正でしょうか。
早い話、大根一本幾らだったら、農家は自営して行けるでしょうか。
そしてまた食糧には、とりあえず空きっ腹を満たすという量的保証以上に、私たちの健康的生存に寄与する安全性と滋養という「質」も保証されなくてはならないのです。

リポートの中では、遺伝子技術に代表される最先端の農業技術が、「緑の革命」の名の下に世界各地で成果を上げたことと、一方で農薬による汚染や地力の急激な消耗によって土壌が崩壊するなど、負の遺産を残していることも指摘されています。

結局、私たち人間は「そこから得られる資源の枠の中で暮らさなければならないことは、ふつうに考えればわかる。」(一部引用)はずですが、どこか大きな勘違いをしているのではないかと思います。
「メリットは必ず等価のデメリットと引き換えになっている。」という普遍的法則を、忘れないようにしたいものです。

麦

沼ノ平の小麦畑 2008年7月


食工房

飯豊山食パン 沼ノ平産小麦全粒粉10%入り

最後に一つだけ宣伝させていただきますが、食工房では、近所の農家にお願いして自前の小麦を確保し、パンを焼くという取り組みをしています。
今年は、ライ麦も作付けしていただきましたので、8月頃から一部のメニューが完全自給原料で製造されることになります。
皆さまの並々ならぬご関心をいただければありがたいと思っています。

うれしいご要望

仙台のカフェ gratitude さんから、うれしいご要望をいただきました。
6月から月2回くらいずつ、食工房のパンを販売していただけることになりました。


仙台と言えば大都会です。
天然酵母のパン屋さんだって沢山ありそうですが、わざわざこの食工房のパンを使っていただけるご縁に、商売は人の縁あってこそ成り立つものと、あらためて感謝の気持ちが湧いてきます。


今日も、会津若松市内へ配達に回って来ましたが、行く先々それぞれの方々とのお付き合いの時間を思いだし、いつも以上に頭が下がりました。


自分の焼いたパンやお菓子が、少なからぬ人に喜んでいただけることは、それ以上に他ならぬ自分の喜びだと気づきました。
デンマークの金言では、「受け取りたければ、まず与えなさい。」と言うそうです。
日本なら、「情けはひとのためならず。」でしょうか。
そうしていたら、今日訪ねたお客さまのブログに、こんな一言が掲げられていました。
「今日 あることを 喜び  今日 できることあるを 喜ぶ」と。
何だかシンクロしてますね。


すごいテンションで突っ走った今日一日でしたが、終わり良ければすべて良しの気持ちで、眠りに就けそうです。

一週間の始まり

食工房は、火曜日と水曜日が定休日ですので、木曜日の今日が一週間の始まりです。

今日は、早朝からパンこねに始まり、お昼過ぎには予定通り全部焼き上げ、配達に回って来ました。
毎週、木曜日が一日終わると、これで一週間持つだろうかと思うのですが、何だかんだと言いつつもう5年余りもそうやって過ごして来たのですね。

人の気力や体力そして意欲は、どこから湧いてくるのでしょうか。
一杯のコーヒーから、ということもあるでしょう。
他には・・・。

そんなことを思いながら、また一週間がんばります。

そう・・・、「よろこび」と「たのしみ」は違うという話しを、いつかしてみたいと思っています。

今日は、時間切れです。



とうもろこしが育っています。

やっぱり、Joaquim

Joaquim Cafe




 


上から順に、生豆、1.Roast   2.Roast


もうずーっと長い間、私を悩ませ泣かせ続けているのが、ブラジルからやって来るJoaquim 農園のコーヒー豆です。
この豆の何が私を困らせているのかと言うなら、それはグレーディングの悪さに尽きると申し上げなくてはなりません。


「農産物としてのコーヒー」というエントリー<参照>の中でも申し上げましたが、収穫されたままのコーヒー豆には、風味に悪影響を与える要因を含んだ粒が、必ず幾分かは混ざっています。
「欠点豆」という名で総称されるそれらの粒を取り除き、一定以上の品質にするのがグレーディングという作業です。
グレーディングには、機械化出来る部分もあるのですが、最後に一番重要なのは、人が目で見て手で拾い出す作業、いわゆる「ハンドピッキング」です。


ハンドピッキングがどんなに大変な作業かということを、今までに何度も申し上げて来ましたが、Joaquim 農園ではいくつか理由があるのだと思いますが、グレーディングが大変大らかと言うか、「本当にやってるの?」と言いたくなる状態なのです。
欠点豆混入率が30%にも達するため、約1/3がロスになるばかりか、選別のために要する労力と時間を考えたら、とても引き合いません。



この画像の中から、欠点豆をいくつ発見出来るでしょう。
挑戦してみてください。正解は、次週に。


しかし、そうまでしてもこのJoaquim 豆を止めない理由は至って明快です。
コーヒーとして一番重要な風味が良いという項目で、食工房として最高点を付けているからです。
今までに、このJoaquim の代わりになる豆をずっと探し続けていますが、食工房テイストに寄与するという、私にとっては一番肝心なキャラクターを満足する豆にはまだ出会えません。
まだまだ当分、否ずっとかも知れません、悪豆拾いに泣かされ続けることになりそうです。


ちなみにこのJoaquim 農園、父親が病気に倒れた後を三人の娘たちのうちの二人が協力し合って、いいコーヒー豆を生産する意気込みに燃えています。<参考資料>
もし彼女たちが、遠い地球の反対側の日本で、似たような姉妹が親の手伝いをしてハンドピッキングをやっていると知ったら、どんな顔をするでしょうか。
いやいや、そういうことを知ってしまったからには、ブラジルの彼女たちばかりにリスクを負わせるのはフェアじゃないという考えもあって、敢えてハンドピッキングの苦行に耐えているのです。

もう一つちなみに、Joaquim / ジョアキンと発音していますが、これはホアキンと発音しなくてはなりません。
固有名詞ですから、ここはこだわって、今後はホアキンと呼称いたしますのでお間違え無きよう願います。


  一部、価格改定のおしらせ

ハンドピッキングによるロスの多少を考慮した結果、ロスの少ない銘柄の価格を引き下げます。



ブルボン・クラシコ 100g当たり 500円 → 400円
カフェ・ヴィーニョ 100g当たり 500円 →
450円



  「カフェクラブの集い」へのお誘い

来る5月31日(日)午後2時より、「カフェクラブの集い」を開催します。
定員8名のところ、まだ十分余裕があります。
どうぞ、ご参加ください。
詳しいご案内は、<こちら>をご覧ください。


  クリングラの製造をお休みします。

当分の間、クリングラの製造を休止いたします。
毎週木曜日に、カネリプッラ(シナモンロール)のみ継続いたしますので、ご注文の際はお間違えのないようご注意ください。

ファーブル農法

今日も畑に出てて、草取りをしたり、植え付けをしたりしていました。

そう、その草取りで思い出す金言があります。
曰く「上農は、草を見ずして草を取り。中農は、草を見て草を取り。下農は、草を見て草を取らず。」とか。
これはもう30年近くも前、千葉県のある農家のカモイの上に掲げられていたのを見て以来、いろいろな意味で忘れられない金言となりました。
当時、無農薬有機栽培や自然農法の話しを聞きかじっていた私はその金言を見て、「フン!何を浅はかな・・。」と密かにせせら笑ったものです。
「たわけ、不耕起無除草こそ上農の極致よ!」と不遜な言葉を口走りそうなのを、やっとこらえていました。
あれから30年近く、阿武隈山中での山暮らしも含めて、農作業や自然との付き合い方への体験が深まり、そしてごく最近この金言に全く違った意味を見出した私です。


物事を空の高みから眺めた時、つまり大局的視野に立つと、この世界には一つの無駄も不足も無いと、よく言われますね。
それはそれで間違いではありませんが、一つ一つの事象の詳細に立ち入ると、そこには様々な不均衡があり、無駄や不足が生じているのですね。
そう、先日も申し上げたように、ディテール<参照>に触れないことには、真実に迫ることは出来ません。


話しが大上段に行ってしまいましたが、草取りということで申し上げると。
自然農法の実践家の方もすでに認めているように、雑草を全くコントロールしないで作物を育てることは、全くとは言いませんがほとんど不可能です。
雑草がない方が、明らかに作物は旺盛に育ちます。
収量も上がります。


そこで私は思ったわけです。
耕運機も除草剤も無い遠い昔の金言ですから、それはどんな意味合いだったのか・・・。
草を見ずして草を取るとは、雑草が生い茂ってしまわない環境を時間をかけて、こつこつと整えて行くことを言っているのではないかと。


そのためには、まだ芽吹いたばかりの雑草を、丁寧に見落とさずに摘んでおくことがとても大切です。
そして一口に雑草と言いますが、実に多種多様です。
その中には、放っておけばすっかり作物を飲み込んで、一面に蔓延ってしかも強力に根を張って取り除くために莫大な労力を要し、次の年もその次の年も頼みもしないのに旺盛に萌え出て来る奴らがいます。
そんなものをそのままにしておいて作物を育てるのは、難しいと言うより端から不可能です。
耕運機と除草剤のお世話にならずに、せいぜい鍬一本でやろうと思ったら、それこそ頭と体を使わなくてはなりません。

そして、これが一番大切と思うことは、丁寧な観察です。
あの昆虫記で有名なファーブルさんのように、わけが解るまで飽きずに観察することだと、今日畑にいて思わず大きく頷いてしまった私です。