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異空間


 


春の頃、そこは桜の花の咲いている様子があまりに美しくて、とても気になっていたのですが、何となくいつも遠目に見ながら通り過ぎていました。

それが今日は、出かける前からその場所のことを思い出し、立ち寄ってみようと決めていました。
用事が終わって帰り道、少し脇道に逸れて車を止め歩いて近づいて行くと、思った通りそこは小さな公園でした。
でも、あまり人が訪ねている様子はなく、生い茂った樹木の下は薄暗く、下草も少し伸びていて何となく荒れているように見えました。
静寂が支配し、霊気が満ちているような感じが漂っているのが、私には分かりました。

まず最初に大きな石碑が立っているのが目に入りました。
多分このあたりの、開墾あるいは灌漑水路の竣工を記念する碑だろうと思ってさらに近づくと、「戦没者」の文字が目に飛び込んで来ました。
そしてそこには、多数の太平洋戦争の戦死者の名前が刻まれてありました。

そうか、忠魂碑だったんだ・・・。
私はそうとは知らずに、裏手の方から入ろうとしていたのでした。
道理で何か違う気配を感じるはずだと、納得しながら薄暗闇の中へと足を踏み入れました。

日頃、あまり顧みられることのない場所なのか、そこは違う時間が流れる異空間のように、私には感じられました。
薄暗闇の中から木立のすき間に見える外の景色は、夕方だというのに妙に明るくまるで別世界のようでした。
そうか・・・、今日からお盆に入ったんだもの・・・。
呼ばれちゃったのかな、と思いつつ写真を撮らせてもらって、そっと立ち去りました。
この次は、何かお供えするものを持って、もう一度訪ねようと決心する私でした。


 


 


 



 


 



 


 

融通の利く人類が作った、融通の利かない社会

人類は多分、あらゆる生物種の中で一番環境適応力が高い、つまり融通の利く生き物でしょう。
だから、地球上のほとんどあらゆる場所に適応して生存している。

極寒のシベリヤから熱帯雨林のアマゾンまで、およそ人の足跡の付いていない所は無いと言えます。
猛獣や毒蛇や毒虫にも対処し、豪雨も干ばつも、大雪も大風も、地震や山火事でさえも、ありとあらゆる自然の脅威を上手に避け、逆にその中に恵みを見出だし活用する術を発見し、磨き練り上げそして共有して来ました。

例えば、毒草や毒キノコの利用法には、人類の英知の真髄と言えるほどの高度な、知と技と感が集大成されています。
また、山に火を放ち制御された範囲に人工的な山火事を起こして地味豊かな耕作地に変え、何年後かにはまた自然に返して行く、こんなことをするのは人類だけですね。

だからこそ人類は繁栄の一途を辿り、これほどまでに数を増やして来たのですね。

もはや人類は、自然界に多大な影響力を行使することが出来る存在だと言うことを自覚し、その力の使い方を誤らぬよう、いつも熟慮しなければならないのではないでしょうか。
私は、もし人類に課せられた使命があるとしたら、それはこの自然界を豊かな生き物たちの楽園にする仕事だろうと思っています。そして人類自身の生存も、そのバランスの中に収まっている必要がある・・・。

ところが実際はどうでしょう。
いつの間にか人類は、自分たちの作った「社会」という小さなお池の中で繁栄を謳歌し、地球全体のことを忘れてただ恵みを受け取ることしか考えなくなりました。
そして、人類のためにのみ都合の良いシステムが完成に近づくに連れ、それは次第に自然の営みとは相容れないものになってしまいました。
例えば、近年ちょっとした災害があっても、すぐに大きな被害が出てしまうのは、私たちの「社会」が自然に対して融通が利かないからだと言えるのではないでしょうか。

どんなにハイテクを誇っても、自然の営みそのものを制御出来るわけはないのですし、制御するのではなく合わせて行くことの中にこそ、人類の英知は結集していたのですから、私たちが作り上げて来たこの融通の利かない経済産業主導の社会は、この際大きく変容すべきだと私は思います。

どのような道があるのか、それはこの自然に真摯に向き合えば、すでに示されているのではないでしょうか。
一度は辿って来た道を、新しい視野と知識と経験をもって見直せば、すぐにもこれからの行くべき方向は見つかるのだと思うのです。
ただし、そこで求められるのは、変えるあるいは変わる勇気だと私は思います。
もはやのっぴきならぬ関係にある人類と自然、問われているのは私たち人類の在り方の方です。

関連記事

時を同じくして、私の友人知人のブログに関連のある記事がエントリーされています。

★ takさんの「今日の一撃」 <参照>
★ kawauchi ideさんの「本気、根気、元気」 <参照>

そして私自身の過去記事もご覧いただければ幸いです。
<参照1> <参照2> <参照3>

今日は朝から、東海地域で発生した地震のニュースで大騒ぎです。
個人的には、浜松市にいる友人の状況が気にかかります。
現地の方々には、心よりお見舞い申し上げる次第です。

市民平和まつり


今年2回目の開催です。  奥の方に、昨年も展示された
ジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」の写真が見えます。



今回の力作、実物大の駐屯地の赤門の模型



森住 卓 写真展 「核に蝕まれる地球」



いいですね、このコピー。 喜納昌吉の印章が押してあります。



沖縄戦の悲惨さを伝える写真パネルを取材中のTV局
こちらは、地元の高校生たちの平和運動グループのコーナーです。



新婦人の会の方が手づくりされた、憲法9条に思いを寄せたタペストリー。



従軍慰安婦の問題を、とても丁寧に解説していました。
新婦人の会の方々の努力に敬意を表したいと思います。



戦争で犠牲になるのは、兵士の命だけではないのです。
陰で女性たちがどれほどむごい目に会って来たか、このパネルが語っています。


 


昨日、今日の二日間、予定どおり「市民平和まつり」に出店参加して来ました。
関係者の方々の熱意と行動力には、関心させられるばかりのこのイベント。
平和を守るために、過去の戦争を検証しいつまでも記憶に新しくしておくことは、是非とも必要なことだと、近年私も思い続けていることです。

そのためのいろいろなアプローチがあると思いますが、会津若松市の「市民平和まつり」は、9条の会を中心に幾つかの団体が力を合わせて、一つのイベントを作り上げている点は、平和運動の理想的な形だと思います。

決して娯楽性があるわけでなく、どちらかと言うと思想的、宗教的あるいは、教条的と受け取られかねないこのイベント。
実際にご覧になった方の中には、多分感じ取られた方もいたと思いますが、本当はこのイベントを作り上げているのは、過去に戦争の犠牲となった無数の魂たちの導きなのだと、私はそれを真っ先に感じました。
だから、展示されているパネルを見ていると、自分に何かが乗り移って来て、当事者感覚が彷彿として来るのが分かるのです。
これは、とても大事なことじゃないかと思います。

人類として、二度と経験したくない戦争。
しかし、記憶が遠のけば再び過ちを犯すのが、人間の宿業なのかも知れません。
だとしたら、戦争の悲惨さ理不尽さを伝え、人々の記憶に新しくしておくこうした取り組みは、どれほど大切なことか・・・。


今日はまた、64年前、長崎に原子爆弾が投下された日でもありました。
戦争の記憶を新たにするには、大変意義あるタイミングだったと思います。


 


しかし私の印象としては、今回残念ながら、ご来場者数は決して多いとは思えませんでした。
もっともっと沢山の人に、この機会に触れていただきたかった。


それでも関係者の方々は、早くも来年の開催を決意しています。
来年もまた、協力させていただけそうなので、私も食工房の営業以外の部分でも、もっともっと手を尽くしたいと思っています。


 



平和まつり限定・Peace Cafe  by 食工房
ピストーラも早々と売り切れました。


 


ちなみに今回、食工房のミニカフェで二日間の売り上げが、98,830円ありましたので、その中から20%相当19,766円を主催者事務局に寄付することを、ここにご報告いたします。

暑い、暑いと、百篇

今日は朝からグングン気温が上がって、会津ではこの夏一番の猛暑となりました。
まあでもその気温の下、200℃超のパン釜で次々とパンを焼いている作業場の暑さを、どうぞご想像ください。
今日はもう口をついて出るのは「暑い、暑い。」の一言。
喉が渇いて仕方がないので、水ばかり飲んでいました。


そう言えば今日は、広島デ―でしたね。
64年前、今日の会津みたいに朝から暑い日だったそうですが、史上初めて実戦兵器として核が使われたのでした。

それにしても、人が人に対して何と恐ろしいことが出来るのだろうと、ヒトという生き物の不可解さを思います。
原爆投下を決定したのは、かのポツダムの議場だったそうですが、広島から遠い外国の卓上で広島の運命を決めた人たちは、果たしてどの程度その結果の悲惨さを想像出来たでしょうか?

エノラゲイのパイロットは、高度10,000mの上空で投下スイッチのボタンを一押ししただけ。
別な飛行機に乗ったスタッフは、史上初の核爆弾の炸裂の様子を撮影していました。

10,000m下でどんな恐ろしいことが起こっていたか、想像することは不可能と言って良かった。
近代兵器の真の恐ろしさは、及ぼす被害へのリアリティーが希薄なことだと、私は思います。


オーブンの何百倍何千倍の熱に焼かれた人々の苦痛には遥かに遠く及びませんが、手袋をしていてもなお熱くて長い時間開けていられないオーブンの中に手を入れながら、これでも何千分の一のリアリティーかも知れないと想像していました。


 


さて、夜になってずい分気温も下がって、過ごしやすくなりました。
東の空に月が上って来たのが見えただけで、すっかりなごんでしまう私です。

どこかの山の中では、夏のフェスティバルに大勢の人が集まり、ひと騒ぎしているらしいと、風のうわさ。
その昔、私もそんなイベントに参加して大いに盛り上がったことがありますが、今は夏の夜は静かに過ごしたい気分です。

星を眺めながら、この世の行く末に想いを巡らせましょうか。
だって、世界がこのまま無事に過ぎて行くとは、とうてい考えられませんもの・・・。


明日から開催される「市民平和まつり」に、どうぞお出かけください。
二日目からは、食工房もミニカフェを出店します。


★只今、当ブログのホストサービスに障害が発生している模様です。アクセスし難い状況があると思います。

暑い一日、やることいっぱい

今日は、ひょっとして梅雨が明けるのかなと思わせる日差しと猛烈な暑さ。
でも、このところずっと雨が多かったので、あたりは蒸れて大変でした。

定休日返上でコーヒー焙煎の仕事をやる他に、ちょっとでも畑の手入れもしたい、庭の草刈りもしておきたいと、無理は承知でも頭の中は手順を考えていて、もうパニックです。

それでもやりました。

コーヒー焙煎は、だいたい全体の半分くらいを終わらせ、明日また継続。
畑は、トウモロコシを30本あまり収穫して、その後じゃがいもを全部掘り上げました。
さすがに、草刈りをする前に日が暮れて暗くなりタイムアウト。
夕食の後、本日ギリギリセーフで入荷が間に合った、カフェマヤの生豆の選別をやって一日が終わりました。

何だか仕事ばっかり・・・?、でもないのですよ。
朝は取り立てのトウモロコシを食べられましたし、コーヒー焙煎している間は、下の娘がお気に入りのCDに合わせて、バイオリンの練習をしているのが聴こえて来て、なかなか気分が良かったし、その後、連れ合いがうまいコーヒーを淹れてくれたし、夕方のじゃがいもゴロゴロはすごく得した気分でした。

ああ、私の元気の素って、他愛のないことばっかりです。
でも、案外それが一番大切なことかも知れません。

8/11から8/19まで、お盆休みをいただくことにしましたので、今週いっぱい走り続けです。

マイブログ中間報告vol.14

ここ二日間ほど更新を休みましたが、毎日更新を原則に、2年と4カ月余りになります。
おかげさまで、ここしばらく毎日の閲覧者数は、100超え200以内で安定しています。

このブログのおかげで、新しいお得意さまに出会ったり、ご来店ご注文の際に事前にブログをご覧になって、新製品の情報をいち早く察知して来られる方もあり、目的は十分に果たせていると思っています。

それはそれとして、只今も編集中の「パンだより」のような紙に印刷したものが、一方ではとても重要だということを、先日特別親しいお客さまと電話でお話ししているうちに、改めて認識いたしました。

パソコンを持っていない方は、もちろんインターネットをご覧になれないわけですが、パソコンもありインターネット接続も可能な方でも、日頃はほとんどインターネットを利用されない方がいらっしゃるのですね。
私のように商売上の必要があって、メール着信や自分のサイトへのアクセス状況を確認したり、ブログの更新やコメントへのお返事を書くために、一日のうちに何度もインターネットを開く方は、それほど多くないのかも知れません。

やはり、人それぞれの好みというものがあり、画面上で見るより紙に印刷されたものの方が落ち着いて見られるし、しっかりと頭に入るという方は実際いらっしゃいます。
と言うことは、ブログだけ一生懸命書いて伝えたつもりになっていても、届いていないことが案外沢山あるかも知れないことを、この際頭に入れて置かねばなるまいと思っています。

いやー、そうなるとまた忙しくなりますね。
ブログの有能性を発揮するためには、出来れば毎日更新が望ましいのですし、一方で印刷物の編集にも力を注がなくてはなりませんから。
一か月に一号、まあこのペースを守ることが出来れば十分ではあるのですが、お知らせだけではないことまで書こうと思ったら、もうそれ専従でやるほどのエネルギーが必要になります。
まあこの手のことは、好きなことの内の一つですから、もちろんブログも止めるつもりはありません。
時々、予告なしに更新をお休みすることがあるかも知れませんが。
気長にお付き合いいただければ幸いです。


印刷バージョンの「パンだより45・盛夏号」が、あと一息で出来上がりそうです。
明日中には、先ずホームページ上にアップいたします。
郵送を楽しみにしていて下さる方もいらっしゃいますので、発送も出来るだけ早くお送りしたいと思っています。

ヒトがヒトでなくなる日

ヒトと野生の動物たちの決定的な違いは、ヒトだけが持っている知能と技能にあることは明白です。
そして恐らくヒトは、同じくらいの体格の他の動物たちと比較して、身体的能力のどの分野においても劣っていることは、これまた明白です。
走っても、跳んでも、持ち上げても、引っ張っても、あるいは噛み砕くアゴの力も、先ず何一つとして野生の動物には勝てません。


世界中のあちこちの先住民の教えにも語られているとおり、この世界で一番弱いヒトが、こうして地上で一番の繁栄を誇っていられるのは、一重に持っている知能と技能のおかげであると言えます。


しかし近年、その知能や技能に、またそれらを統括し裏付けるために必要不可欠な自然に対する感覚に、何やら異変が起こり始めたような気がしています。


ヒトよりずっと強くて、ヒトを容易く自分たちの餌食にしてしまえる肉食獣がいくらでもいる中で、多くの野生の動物たちがヒトを恐れるのは、長い時間をかけてヒトが築いて来た、ヒトと野生の動物たちとの間の良い意味での緊張関係がものを言っているからです。


その一番は、誰でもお分かりになると思いますが、火を焚くことです。
この地球上のヒト以外のあらゆる生き物たちは、まず例外なく火を恐れます。
夜中の野営地で火を焚いてトラの襲撃から身を守った話しは、私の父の体験談でもあります。


そして次は音です。
今私たちが専ら楽しみのために奏でる音楽は、元は神々の世界と交わるために、さらに遡れば、野生の動物たちを驚かせたり、警戒させたり、また逆に安心させたり、誘い寄せたりするために、音を使いこなしたことが始まりです。


例えば、北欧にクゥーラと呼ばれる唱法があります。
叫び声のようにも呼び声のようにも聴こえる歌声は、狼を追い払い、牛などの家畜を呼び寄せることが出来るのです。
世界中にあるそうした音を使いこなす技やそのための道具は、見るにつけ聴くにつけ、全く驚嘆に値します。
ディジュリドゥというオセアニアの先住民の楽器は、その低く唸るような持続音に、たいていの動物(犬や猫も)が警戒態勢をとります。
アフリカの太鼓も、音やリズムに様々な意味があり、特別な力を発揮することもあります。
否、それだけではありません。
ヒトが奏でる音楽に、動物たちが魅惑され酔いしれることさえあるようです。


このように、火を焚き音を発するだけでも相当な威力があると思いますが、ヒトはそれ以外にも沢山の手管を用いて、この地上での優位を確実にすることが出来たのですね。


ところが近年、火は外から全く見えないところで燃やされるようになり、四六時中垂れ流される雑多で無意味な音の洪水でしかない騒音は、もはや動物たちを警戒させることも無くなってしまいました。


加えて何より、未だにヒトの優位を信じて疑わない我々は、家の中で油断しきって過ごしています。
その間にも、野生の動物たちは、どんどんヒトの暮らすエリアに近づき侵入して来ています。
私の家の数100mの範囲には、もう当然のように熊が出没しています。
(姿を見たことはなくても、その証拠はいくらでもあります。)


その一方で、外で火を焚くな!ナイフは凶器になるので所持禁止!大きな音を立てれば近所迷惑!そしてやれ保護獣だ絶滅危惧種だと騒ぎます。


何かが違う!と、私はずっと思っています。
このままでは、やがてヒトがヒトでなくなる日がやって来ると、半ば本気で心配しているのです。
私の世代の者は、ちょうどその臨界点に立っているのじゃないでしょうか。
後の世代に何を伝えるべきか、今さらながらよく考えて行動すべきだと思う私です。

そしてヒトの知能や技能は、自分たちが優位に立つためだけにあるのではなく、他の生き物たちのために役割を果たすためにもあるのだということを、最後に付け加えたいと思います。

夕立

今日は、夕方から雷雨になりました。
仕事を少し早めに上がらせてもらって、あちこちジャングルになり始めた庭の草刈りをしようと、刈り払い機の刃研ぎを終わらせて、さてエンジンをかけて刈り始めたところで、頭の上に大粒の雨が当たり始めました。
刈り払い機を片づける間もなく土砂降りに。

そして雷が鳴ったので、今度は大慌てで家の中に入り、電気器具の電源を抜いて回りました。
PCはもちろんですが、先日入れたばかりの真新しい冷蔵庫と冷凍ストッカー、その他気にし出すとその数の多さに驚いてしまった私です。
昔なら、電球が一個切れたくらいで済んだでしょうが、この時代の家の中は何もかもが電気仕掛けです。
そしてハイテクの物ほど落雷の被害を受けやすくて、おまけに高価なものが多いのですね。
直撃雷でなくても、近くに落ちた雷の衝撃が電線を伝わって、周辺の家々の器具に被害を及ぼすことはいくらでもあるそうですから、ゴロゴロッと来たらもう油断はしていられません。
つい先日も、あるお店で冷蔵庫と冷凍庫とエアコンが一度にやられて、100万円を越す出費を余儀なくされたという話しを聞いたばかりです。
うちなんかその点、自宅と店は棟続きですから、必要とあらば夜中でも対応出来るのです。

でもちょっと考えてみたのですが、年間通して全国で、雷の被害で破損する電気器具の数は、一体どれほどになるのでしょうか。
決して軽いものではないと思います。
そして皮肉なことに、それによる強制的な買い替えは、そこそこ大きな需要となっているのじゃないでしょうか。
まだそれに雷の被害を受けるのは、家庭だけではありませんからね。
例えば携帯電話の基地局などが直撃されたら、いくらガードしていても、設備は無事ではいられないでしょう。
そしてどれほどの被害額になるか、ちょっと想像出来ません。

直撃雷の凄さと恐ろしさを、我が家は一度味わったことがあるので、よく分かっているのです。

便利になったハイテク生活も、雷に対してはいつもビクビク神経を尖らせていなくてはならないのですね。
遠目に見る稲光は、とても美しいと思いますが、余裕で眺めているわけに行かなくなってしまった、今の私たちの生活がちょっと恨めしく思われる夕立でした。

藤島晃一 ライヴ・本番

写真撮ったのはこの一枚だけ。それどころじゃありませんでした。

正直、CDを聴かせただけでは絶対に伝わらないものがあると、いろいろな人のライヴに立ち会って来て分かっていました。
藤島さんの音楽、というよりパフォーマンスはなおさらそうだと、昨日のライヴに立ち会って実感しました。
冒頭一曲目が始まって、長いギターのイントロに続いて第一声を耳にした瞬間、頭と体がカーッというかゾクーッというか、違う世界にトランスして行くのが分かりました。
こういう感じは今までに何度も味わったことがありますが、それでもそう滅多にあるものではありません。
同じ人のステージでも、来る時と来ない時があったりもします。
またライヴの中の全部が全部というわけでもありません。
でも、たとえ一瞬でもその感覚を味わうと、ライヴの良さの虜になって、私などはこうして自分で企画してでもやりたくなるのですね。

音楽と言っても本当にその世界は無限に広く、私の場合は限定した好みというものは存在しません。
ほとんど何でも来い!です。
ですから、一昨年、さらにその前の年と二回関わった、ショーン・ライアンのライヴの時も、今回の藤島さんとは違いますが、思わず目頭が熱くなり嗚咽が漏れそうになるのをこらえるのが大変なほど感激していました。
こんな風に、音楽の種類傾向によって違った感慨を味わえるのが、またいっそう私を音楽に近づける理由でもあるのです。
でもあえて言うなら、人類にとっての音楽のルーツに近いものほど、好みに合っています。
反対に、商業主義に乗ったものほど気持ちが動きません。

そうそう忘れてはならないのは、一昨日の「チャルジョウ 納涼の宴」です。
この時のヴォイスパフォーマーのarincoさんのパフォーマンスの中にも、その一瞬があったことを銘記しておきたいと思います。

これでは、また誰かのライヴを企画したくなるでしょうね。
こうして時々変なことをやる風変わりなパン屋を、応援していただければ幸いです。

おしらせ

藤島さんの作になる写真集とポストカード、それからCDをお預かりしています。
食工房にて販売しますので、興味のわいた方はお声をかけてください。
また楽器屋DONでも、CDを販売しています。<こちら>

ありがとうございました。

今回のライヴに関し、PA(音響)には特別なこだわりのある私の意向を汲んで最高の音作りをしてくださった、「ヒロミュージック」の高橋博之さんに特別な感謝を申し上げます。
また会場になりました「風街亭」さん、その他ご協力いただきました関係各位、ご来場くださいました方々に対し、改めてこの場を借りてお礼申し上げます。

もはや、居るだけで害になる人類!?

この地球上に人類が出現してどれほどになるのでしょうか。
類人猿や旧人類の時代から数えると数百万年。
現生人類であるホモサピエンスに限れば、僅かに数万年。
いずれにせよ、宇宙開闢、太陽系の誕生そして地球生命の誕生以来の歴史の長さからすれば、ほんの瞬きにも至らないほどの短い歴史です。

しかし、この地上に人類が現れてからというもの、この地球上の様相はいかにも急激に変化して来ました。
それも現在に近づくほどますます急激に、その度合いを強めています。

その中でいわゆる環境破壊という言葉で語られる、この地球上に起こっている沢山の問題の核心は、つまり私たち人類を含む全生命にとって、生存を脅かす状況が進行しているということです。
その深刻さは、私たちが思っている以上かも知れません。
そしてその原因は、全体的な状況から見ても、確認された事実から判断しても、私たち人類が及ぼす影響によるものであることは、もう間違いないことです。


「居るだけで害になる」と申し上げたその理由は、例えば今、北極海の氷がどんどん融けて、ホッキョクグマの生態が脅かされているわけですが、かと言って私たちが、わざわざ北極海に出かけて行って何をしたというわけではありませんね。
それでも確かに害が及んでいることを想えば、私たちはただここに居るだけで害になる存在だと申し上げたいわけです。
もっと身近な例をお話ししましょう。
今私が暮らしている場所では、熊の出没が問題になっています。
子どもたちの通学路で、農家の方が毎日仕事をする畑で、熊の足跡が見つかったり、熊の姿を目撃することもあります。
知人は、飼っている鶏が熊に襲われて、全滅させられたこともあるのです。
ではどうして熊たちがこれほど人里に接近するようになったかのでしょう。
いろいろ原因はあると思いますがその一つに、近年山が荒れて熊たちの食糧が不足していることが挙げられます。
原因不明?の病気で、楢や栗などブナ科の木々が立ち枯れしていることは、すでにご存じの方も多いと思います。
山が荒れたのも、いろいろな意味で人間活動が関係しています。
 
このブログの過去記事の中でも、一度触れたことがあります。 
<参照>

こういう事例を見て、私たちが自覚しなければならないことは、わざわざ山に入って木を切るまでもなく、私たちは木を枯らしているということです。
こんな状況の中で熊たちを山奥に追い返しても、どの道彼らは生きて行けないでしょう。


こんな風に、野生の生物たちに広範囲に間接的全体的に害が及ぶようになったことは、この次は私たち人類自らも被害に遭うことを示唆しています。


ではどうしたらいいのでしょうか。


もちろん、私ごときに具体的な提案が出来るわけはありませんし、あまり明るい未来を想像することも出来ません。
ただ一つ思っていることは、専門家の研究よりも私たち一人一人が生物としての感覚を取り戻すことの方が、ずっと重要なのではないかということです。
私たちの生死は、この母なる地球の生命とともにあることを覚悟していたいと思います。