高野通信」カテゴリーアーカイブ

テレビ電話

インターネットを使えばテレビ電話が出来ると、前から知ってはいたのですが、今回の帰省に合わせて、そのテレビ電話を使えるようにセットアップしました。

老い先短い母が、こちらにいる娘たちやひ孫たちの顔を見ながら話しが出来たら、少しは元気が出てボケ防止にも効果があるかも知れないと思ったからです。

大方一世紀前に生まれた老人は、電話はもちろん無く、手紙が届くのにも何日もかかり、どこへ行くにも歩くのが当たり前の時代から、世界中何処とでもテレビ電話がつながって、日本中何処へでもその日のうちに辿り着ける時代まで、とんでもなく大きな変化を体験しました。
全く凄いことです。
その一世代下の私でさえ、子どもの頃と現在では、例えば孫たちに話して分かるだろうか・・・?と思うようなことがいくらでもあるのですから。


来週高知に到着したら、先ずは妹のPCにウェブカメラをセットアップしなければなりません。
まあ簡単な作業ではあるのですが・・・。


母がどんな反応をするか、ちょっと楽しみです。


ああ・・・こんなことなら、もっと早く思い立っていれば良かったのにと、ちょっと悔やまれる私です。


さて、食工房の新しい連絡先も順調に稼働しています。
サイトも、少しずつ出来つつあります。

取りあえず旧サイトが使えますので、必要な情報は<こちら>に告知しています。
必要に応じてご覧ください。


ところで、グーグル検索で確認したら、「食工房」での検索結果のトップに、また我が食工房が上がっていました。
出て来るのは、再構築中のメッセージとアイドルの看板坊やの画像です。

アップして数時間のうちに、検索結果に反映されていたのは、ちょっと興味深いですね。
検索エンジン対応策が見えるような気がします。
と言っても、特に何もする気はありませんが。


それから・・・でした。

「パンだより」印刷バージョンがもうすぐ出来上がります。
今夜中に仕上げて、アップロードまでたどり着きたいです。


と言うわけで、本日これまで。

明日は4月1日、何の日だかご存知でしたか?
ご用心ご用心。

復旧中です。

今日は、レンタルサーバー上にドメイン(shokuko.com)を追加しました。

http://shokuko.com を覗いてみてください。
・・・と言っても、まだ・・・ですが。

新しいメールアドレスも決まりました。
mikke@shokuko.com (@マークを小文字に変えてください。)

今まで使っていた m_aoki は廃止しました。
本当は元の通りに復旧した方がいいのですが、いろいろ考えて、結局変えることにしました。

mikke は、いいもん見っけ!に引っかけているんですよ。  どうぞよろしく。

なおしばらくの間、shokuko@coral.plala.or.jp と両方に対応します。


まだいろいろと不備もあって、全て滞りなく動くようになるにはもう少しかかりそうです。
お待ちくださいね。


あとは只今パンだよりを編集中です。
今週中には出来上がって公開の予定です。


さて今週もまた忙しくなりそうです。
明日は、いつものパン焼きです。

外はまだまだ寒くて、今日も朝のうち雪が降っていましたが、明日はどうでしょう・・・。
でも、道路は全く支障ありません。
ご来店お待ちいたしております。

コーヒーサービス、続行しています。 {/喫茶店/}

ブログ開設5周年

本日、ブログ開設5周年を迎えました。
思い返せば、2007年3月27日に第一声を上げて以来、概ね毎日更新で5年間を過ごして来ました。
本日までの訪問者数合計が、35万を超えています。

まあ数のことはどうでもいいのですが、本当に全国のあらゆる所に閲覧してくださる方がいらっしゃるらしいことは、コメントやいろいろな方からの伝聞で知ることが出来ました。
食工房の広告塔としての役割も、十分過ぎるほど果たしてくれています。


折しもホームページの移動中のトラブルから、メールの送受信が止まっていますが、このブログで告知することが出来て助かっています。


ところで今、「食工房」でグーグル検索すると、我が食工房は消えています。
ドメインを移行中なので仕方ないのですが、復活した時にいち早く拾われるためにも、このブログの果たす役割は大きいはずです。
代わって、このブログがトップに上がっていますから。


ただ今、レンタルサーバーを一ヶ所契約したところです。
これから、ホームページの移動と再構築をします。


オフィシャルメールアドレス、今しばらくお待ちください。


ああ何だか、パン屋じゃないみたいな話になって来ました。


そしてただ今、パンだより編集中。


相変わらず、忙しい・・・。


庭では、本日初めて、福寿草の花が咲きました。

家の出入り口の雪の階段も崩して、上り下りせずに済むようになりました。

早く早く、春よ来い!




食工房のホームページ(旧サイト)は<こちら>

メールでのご連絡先は shokuko@coral.plala.or.jp (全て小文字に変えて入力してください。)

藤沢集落のこと

こちらに移住して早や8年と半年余り、ご近所の方々とも親しくなり、この二年ほど行政区の役員も務めさせていただきました。

それで気がついたと言うか面白いというか、いわゆる正式な住所番地と地区の人たちが呼び習わしている集落名は違うのですね。
ここは住所で言うと、喜多方市山都町相川字高野と言いますが、地元の人たちの間では、藤沢(集落)の中島上(組)ということになります。
相川という範囲は、実は藤沢よりもずっと広い範囲のことを言っており、藤沢他3集落を含んでいます。

昔は、相川村という一つの自治体だったのですが、昭和の大合併で山都町になり、さらに平成の大合併で喜多方市になってしまいました。
この藤沢とか中島という呼称は、住所番地の中には出て来ませんが、地元の方にとっては、一番親しみと実感のある呼び方です。

ただ今、藤沢集落は52戸。
その中の中島上組は8戸で、中では一番個数の多い班です。


さて今日は、山都町内の各集落で年一回の定例総会が催されたようです。
当藤沢集落でも、午前中集落の全戸の世帯主が集って、集落の運営について話し合いました。

行政区としての集落と言っても、何も権限が与えられているわけではありませんが、中に暮らしている私たちにとっては、一番かかわりの深い現実的な重みのある組織です。


今、合併につぐ合併によって、本来身近であるべき行政は、どこか遠く上の方にあって否応なくお達しが来る所という感じがしています。
地方の中山間地の小さな集落の衰退など、大した問題でもないかのように、子どもの数が減ればさっさと小学校の統廃合を決めてしまいます。
昨年はバス路線も廃止になり、一気に不便になりました。
そういう情勢の中で、やがて私たちは生活環境そのものを維持出来なくなる時が来るのではないか、という危機感を感じ始めています。


地方の切り捨て、その中でも僻地の切り捨て、それがこの国の方向ですね。


しかし、私は思います。
地方のそれも辺境の地に、土に根ざした人々の生活が息づいていることの重要さを・・・。
そこには、人類が、長きにわたって培い携えて来た生存のための智慧があります。
それは、あらゆる科学技術、芸術文化のリソースに違いありません。

最先端の遺伝子技術の研究でも、最も大切なのは原種であることを、思い出してください。
原始に近い暮らしから、私たちはいつでも多くの貴重な示唆を得られるのだということを忘れてはならないと思います。

田舎での暮らしが、そうした大切なリソースを守っているのです。
それを失うことがどれほどの損失か、また活性化が単なる都市化であってはならないことなど、まだまだ気が付いていない人が多いことは、とても残念です。


今はまだそこそこ人数もいるし、若い世帯も子どももいるので、今の内なら打つ手はあると思います。
藤沢集落に限らず、地方の小集落が今後も活力を保って行けるかどうかということは、実はこの国の未来を左右するほどの重大事だと思っている私です。

春分の日・雪です。


ワイパーを立てて置く習慣も、いつの間にか忘れていたのに・・・。


昨日少し暖かくなって来たと申し上げましたが、その途端今朝は雪がうっすら・・・。
お彼岸の日に雪とは!今年も天変地異の年なのでしょうか。
何事も無いことを祈ります。


昨年の今頃は、本当に大変でした。
妙に平然としていたところは確かにあったのですが、結局足が地についていませんでした。
今年はこれから雪が融けて、またジワッと線量が上がるかも知れません。
春の風に煽られて、放射性物質の再飛散もあり得ると指摘する学者もいます。


これもまた大事に至らないことを祈ります。


これまでずっと見て来て思うことは、事放射能に関しては、人によって見解が違うということが、決定的に混乱を大きくしているということです。


何が本当か、福島県民がこれから何十年かかけて証明することになるでしょう。
いろいろな意味で・・・。
多くの皆さまには、他人事でなくしっかりと見ていて欲しいと思います。
そして未来に向かって愚かな選択をしないように、原発の再稼働は絶対にいけません!





  続けてお知らせ・すみません・・・

食工房のサイトの引っ越しをしていて、一時的にURLが変わっています。
ちよっと私も考えが足りなくて、拙速に事を運んでしまったため、いろいろなところでリンクが切れてしまったと思います。
せっかく検索エンジンに対して有効に働いていた資産を、一気に失くしてしまったものと思われます。
ちょっと残念ですが、仕方ありません。

後継のOffice365への移行は、乗りかかった船で取り敢えずそうなりますが、食工房のニーズに必ずしも合わないサービスのため、さらにもう一度乗り換えることになると思います。
皆さまには、戸惑わせることになって申し訳ありませんが、不勉強の次第何卒ご容赦。

ただ今食工房のホームページは、<こちら>からご覧いただけます。

起こってしまったことは・・・

一年前の今頃の記事を読み返してみました。


正直に申し上げて、よくまあ落ち着いていられたものだと思う一方、それは認識不足によるところもあったと、それを否定出来ません。


まあ、単に幸運だっただけかもしれません。


とにかく起こってしまったこの放射能災害とは、付き合って行くより他ありません。


もはや現代を生きている人類全体の課題です。


前にも申し上げましたが、今すぐ原発を止めて全廃しても、残った使用済み燃料などの核廃棄物の後始末は、短い私たちの一生と比較すれば、ほとんど永遠と言って良いくらい長い時間を必要とします。

とりわけ、事故で壊れてしまった原発の後始末がどれほど厄介な事か、気が遠くなりそうです。


一方、私たちの被曝の問題はどうでしょう。


事故直後のパニック的な状況は、もうとっくに過ぎ去っています。


この時に何処にいて何をしていたか、確かに問題ではあるけれど、特別線量の高い場所に長期間居たのでなければ、そんなに気にすることはないと、私はそう考えています。


元々自然界にどんな種類の放射線がどのくらい存在しているのか、私たちは日常的にそれをどの程度浴びているのか、それが分かって見ると、次に今回の事故によってどのくらいの期間どの程度それが増加したのか、そのリスクを大雑把に見積もることは出来ます。


被曝で癌になるというのはある意味本当だと思いますが、低線量被曝の場合は、被曝以外の原因がどのくらい重なるかが大きく関わって来るのだと思います。
素人考えではあるけれど、そんなに外れてはいないだろうという確信があります。


だからと言って、国や東電の対応があれで良かったとは言いませんよ!


それはそれ、これはこれです。


法律にも明記されていた年間1mSvの被ばく限度は、守ろうと努力するのが本筋で、初めから超えても大丈夫などと言ってはいけませんね。


結果がどうなるのか、今私たちは好むと好まざるに関わらず、いろいろなレベルで人体実験中なのです。


杞憂に終わるならそれはそれで良し。


でも、事故に至った経緯に対する国と東電の、無策と無責任の落とし前だけはきっちりつけてもらわなくては困ります。


謝罪で済む話ではありません。
関係者一同、切腹申し付けられるべし。

苦悩する福島

震災以来一年間、身の回りあるいは伝わって来る便りなどに触れながら感じたことです。

地震発生後、原発の状況を予測して、ほとんど間をおかずに避難行動を起こした人、爆発の第一報を聞いて福島県を脱出した人、しばらくは留まったものの結局県外に避難した人、妻子を避難させたが自分は残っているという人、一時避難したものの早々と戻って来た人、ずっとどこにも避難しなかった人・・・、放射能に対する人々の行動は、本当に様々でした。


そして決して、どれが正解ということは言えないのですね。


もちろん、警戒区域に指定され避難指示を出された人は、是非なく直ちに避難したことは言うまでもありません。
(それでもなお、隠れて居残っていた人もいたのですが・・・。)


しかし自主避難に関しては、そこに一つの傾向があるように思います。


素早く避難の決断をした人の多くは、福島の生まれ育ちではなく、他所から移住して来ていた人でした。


それに対して、ずっと居続けた人はたいてい地元の人です。


年齢によっても違いがあります。
職業によっても違いがあります。


若い人達、とりわけ小さい子どもを抱えている家族は、早い決断をしています。


会社勤め、自営業、農業、言わなくてもお分かりと思いますが、農業の人は、ほとんど動きませんでした。


世の中には、この際福島県は全員避難させるべきと言う極端な考えもあるのです。


もし国と東電が本気になって取り組むなら、それも可能かもしれません。
でも、それが今回の原子力災害への正しい対応だとは思いませんし、命を大切にすることでもないと私は思います。


人は、思っているよりもずっと土地に縛られて生きている、否、言い方を変えれば、大地と深い絆で結ばれて生かされている、だからそこを離れることは生きることそのものへの不安につながります。


また、一度そこを離れればもう二度と戻って来ることはないかも知れないのですから、その精神的苦痛に耐えられない人も当然いるでしょう。


警戒区域から頑なに出ようとしなかった人のことが話題になったことがありましたが、その気持ちは痛いほど分かります。
勝手なことをするなと非難するのは簡単ですが、そういう人の気持ちを切り捨ててしまうことは、私には正しいとは思えません。


避難した人も留まった人も、皆それぞれの理由で行動しています。


そしてそこには人それぞれに人の数だけ深い悩みと苦しみがあったということは、誰も外に向かっては言わないのですね。


福島の人は、何でもっと怒らないんだ!とよく言われます。


そんな簡単じゃないんだ、と私も他の誰もが思っているはずです。


福島を外から見たのでは分からないことが、多分あるのだと思っています。


福島県は広いです。


原発がある浜通り、高速道路と新幹線が通る福島のメインルート中通り、そして西半分を占める会津の三地域からなっています。


言うまでもなく地震と津波と放射能の三重苦に見舞われた浜通り、津波こそなかったけれど放射能汚染の苦汁を舐めている中通り、そして比較すれば被害の軽かった会津、それぞれの立場の間には微妙なすれ違いや対立もないわけではありません。


会津に避難してホッとしている浜通りの人がいるかと思うと、会津さえ危険だと一早く脱出して行った人もいます。

細々としたことは、ここでは申し上げられませんが、福島の中も残念ながら一つではないのです。


そして一年経っても、まだ何も結論が出せないもどかしさ、どこまでいつまでとも分からない果てしの無さに、まだまだ先まで苦悩し続けるしかない私たちです。

震災、一年

今日は3月11日、一生忘れることはないであろう日となりました。
自分の一生の間に、これほど劇的な出来事に巡り合うとは、全く思っていませんでした。

太平洋戦争と原爆投下は確かにこの国の出来事でしたが、私にとっては遠い過去の出来事でしたし、どこかの国で戦争が絶えなくても、やはり自分の身の回りの出来事ではありませんでした。
しかしこの度の大震災と原発の爆発による放射能汚染は、自分の現実として体験することになりました。


わずか一年が経ったくらいでは、まだまだ記憶は生々しいものがあります。


一見今まで通り仕事をしていたり、同じ住まいに暮らしていたり、もう大丈夫なんでしょ?と言われそうな状況ではあるのですが、そうではありません。


何かが重い、今頃になってじわーーっと疲れを感じるのですね。


元気を出してがんばることは出来るのですが、そこで置き去りになって行く何かが、心の底に沈んで行くのが分かります。



横浜で頑張ってくれている連れ合いとスタッフには申し訳ないけれど、今日は一日、ほとんど仕事はしませんでした。
明日も、一日悪豆拾いをしながら物思う時を過ごします。

原発の再稼働に、明確に反対します!

昨日でした。
配達に回りながら、ラジオで国会中継を聞いていました。
何人かの議員が、停止中の原発の再稼働について質問していました。

ストレステストの根拠の薄弱さ、安全が担保されたとは言えないことが明確なのに、なおまだ住民の理解を得て再稼働すると、壊れた蓄音機のように同じ答弁を繰り返す総理大臣、経済産業大臣。

正直申し上げて、ムカつきました。
誠意というものを全く持ち合わせていないか、それとも単なる愚か者か・・・と。


しかし今日、かのHappyさんのツィートを見て、また強烈な一撃を喰らったような気がしました。


原発の再稼働の最後の決定権は、立地自治体にあるということなのですね。
つまりその地域の首長が、住民の意志として反対を表明すれば、再稼働はあり得ないということです。


以下にHappyさんのツィートを引用します。


※出所は <こちら> 3月8日のツィートです。


『あと、全国の既存原発立地自治体の役人さんも再稼働の議論をする前に生の1F現場や警戒区域内の現在状況をしっかり見て欲しいです。
あってはならない事だけど、自分の町や村が今の浜通りと同じ状況にならない確率はゼロではないんだから。』


『再稼動に賛成した自治体の役人さんは一生責任逃れ出来ないように名前を刻んだ大きな石碑を町や村に建てる位の覚悟は出来てるんだとは思うけどね。
今の福島もそうだけど事故が起こってからあーだのこーだの言っても後の祭りなんだ。』


『今までの自治体も独自で原発の勉強なんかしてないし危機意識だって持ってないんだ。
電力会社や保安院が言ってる安全・安心をまともに受けてるだけで、自ら突っ込んだ指摘なんかしてないよね。
自治体の中に原発対策部くらいあっても良さそうなのに。』


『それでもって事故が起こった後はみんな口を揃えて電力会社や国に「安全・安心と言ったじゃないでか、こっちは騙されたよ」って言うんだよね。
確かに騙す方や事故を起こした方は悪い。だけど騙されないように防衛対策しないで無防備なのはダメだと思うんだ。』


『たぶん3.11以降は再稼動の話が本格的になり夏までに稼働する原発が出てくる。オイラはなぜ町や村の自治体の事つぶやいたかって言うと国や県がOKでも最後は町や村が決める事だから安易に考えて欲しくないからなんだ。もう騙されたって言い訳は出来ないんだからね。』


『再稼動するって事は利権や町村の発展や維持を考えるんじゃなく、町や村の住民達全員の命がかかってるって事を第一に考えて欲しいでし。』


 


止めようと思えば止められる、動かさないと決定する権利は、自分たちの手の中にあるのじゃないですか。
こんな時に国民がバカでは、全くしょうがありません。


否、それほどまでに、原発はおいしい話しなんですか?
何処かの誰かが言ったかどうか知りませんが、「原発中毒」って本当ですね。


全国の原発立地自治体の首長さん方よ、今すぐ全員福島を見に来い!と申し上げます。


今夜は、3・11前夜です。

一年前

もうすぐ3・11ですね。
今年のその日は明後日の日曜日ですが、昨年のその日は曜日で言えば金曜日で、つまり今日というタイミングでした。
あの日、いつもの金曜日と同様にマフィンとスコーンを焼いて、午後、娘二人に配達を頼みました。

今まさに出かけようという時に、グラグラとあの長い揺れが始まりました。
車を店の前に止めさせて、様子を見ていました。

初めのうち家の中にいた私と連れ合いは、店の出入り口に近い所で外を見ていたのですが、あまりにいつまでも揺れ続けるので、中にいるのが不安になり外に出ました。


ゆっくりとした長い揺れだったので、どこか離れたところで巨大な地震が起こったのかも知れないと、その時はとっさに東海とか南海とかそのあたりが思い浮かびましたが、そうではなく東北だと分かった時は、真っ先に原発のことが気にかかりました。


しかしそれも、あの津波の映像が流れる中各被災地の状況が想像されて、とりあえず何事も無く済んだ我が家で、先ずは気を落ち着けることだと肝に銘じました。


そして今でも不可解なのですが、娘たちを配達に出しているのですね。
結局無事に行って帰って来ましたが、途中道路が凸凹していたり信号機が消えていたり、配達先のお店では棚の商品が落下して大騒ぎになっていたり、そんなところへ納品に行ったわけですから、よくまあ・・・とは思いますが、事の大変さが認識出来ないくらい、ここは何事も無かったわけです。


でもその後の大変さは、このブログでもお伝えした通り・・・・。


あれから一年、ここ会津の地では、見た目は全く何事も無かったような風景と生活です。
でも何かが違う・・・。
本当は、日本全体がなんでしょうね。
3・11以後、確かに何かが変わったと言うか、壊れたと言うか、もう元には戻れない状況が進行し始めたのだと思っています。


それが何なのか、どういうことなのか、追々語らせていただきます。


先ずは3月11日を前に、この一年間をじっくりと思い返してみようと思っています。