今回は、私の母の話です。
母は88歳になりますが、今もまだ健在です。
これからまだ聞こうと思えば、話を聞くことが出来ますが、母は自分の半生を小説風に書き上げて出版していますので、その中から、また直接聞いたことなどを、私がまとめて文章にして見ます。
母は、戦争中は大方東京で暮らしており、かの東京大空襲の時も危うく命拾いして、今までを生き延びて来ました。
母の戦争話の要点は、国民が一丸となって戦っていると思わされていたあの戦争も、実は、不正が横行し不平等に満ち満ちた、自分たち自身の生存のための戦いの一面があったということです。
大方の人々が、乏しい食糧で飢えをしのいでいる間も、あるところには、砂糖、缶詰、小豆、サイダーなどが戸棚にギッシリと詰まっていたのを、実際に見たことがあるそうです。
あるところには何でもあるというのが事実だと、思い知ったそうです。
また、配給物資を多く受け取るために、帳簿をごまかして従業員の数を水増しする工場があったり、そうやって余計に受け取った物資が闇ルートに乗って、特定の人間たちの金儲けに貢献していることも、世の中をいっそう悪くしていると、内心許せない思いで過ごしていたそうです。
ある時はまた、勤めていた会社の若社長が、従業員の署名入り嘆願書を添えた書類一通で、重要産業の責任者という名目で召集解除されて帰って来たそうです。
絶対と思っていた赤紙(召集令状)でさえ左右出来るという事実に愕然としたと、私は何度も聞かされた覚えがあります。
そんな話をする時いつも、国民は情報を操作されて何も知らされず、盲目的に戦意高揚へと駆り立てられていたのだと、悔しそうに憤る母の姿は、子どもの正義感にも響くものがありました。
いつでも正義のためと言いつつ、戦争の陰には巨悪が手を回していて、全く被害の及ばないところで利権を貪っている、そういうものだと私も思います。
余談になりますが、かの東京大空襲の時、焼け野原のただ中に母の飯炊き釜一つだけが焼け残っており、その釜で、地下壕に隠しておいた米をプールの水で研いで飯を炊き、皆で食べたそうですが、その釜は蓋だけ新しく作り直して、その後もずっと我が家にあり使っていました。
一ヶ所少しへこんだその釜は、戦争を知らない私にも、何かを語っているという気がいつもしていました。
さすがに今は使っていないようですが、実家の物置の片隅にはまだその釜があるはずです。
母の著作の紹介
「はるかなる旅路」 地上から神秘世界へ -わが内なる人生の旅-
青木修子 著 文芸社 1200円+税
☆自費出版のため、書店にはありません。
私の方へご連絡いただければ、お分けいたします。
☆第47回高知県出版文化賞受賞
「高野通信」カテゴリーアーカイブ
続2・画面と紙面
分かっていても、実際にやって見ていつもがっかりさせられること、その一つがwebコンテンツのプリントアウトです。
私のブログを、インターネットに縁のない年老いた母にも読んでもらいたいと思い、何度か印刷して見るのですが、どうやっても満足の行くものが出来ません。
「そんなこと当たり前だよ!」と言われてしまうのでしょうか・・・?
まあ、分からないでもありません。
webコンテンツは動的なものですから、紙に印刷されて動きを止められてしまうと、意味の無くなる情報が沢山盛り込まれているのですね。
それからもう一つ、画面の表示は自由自在に設定を変えられるので、見ている画面をそのまま印刷しても良い印刷結果が得られるとは限りません。
たまに、印刷結果を重視して作り込まれたページにお目にかかることもありますし、PDFファイルという手もあるのですが、それでもwebコンテンツは、画面で見るだけのものと思っていた方が良さそうです。
やはり、印刷物には印刷物としての得難い特質や存在価値があるわけです。
ま、それは分かっているつもりですが、年老いた母に今さらインターネットを覚えてもらうことはまず不可能ですし、もう少し何とかならないものかと頭を悩ましています。
例えば、ブログの本文や画像、寄せられたコメントなどを、不要なリンク表示などは省いて、代わりにイラストや囲み枠などを使いながら、いい感じにレイアウト編集すれば、雰囲気の伝わる印刷物になりそうですね。
でもそれって、ものすごく手間暇がかかりますね。
毎日毎日更新し続けているブログを、そんなことが出来るわけもありませんので、今ちょっと投げやりになってしまっています。
残暑お見舞い申し上げます。
暑い日が続いています。
全国的な暑さのようですね。
暑いのも寒いのも、苦痛と言えば苦痛ですが、その季節にふさわしい暑さや寒さを味わうことは、健康上は有意義なことであるらしいですね。
おかげさまで、今までのところは暑さにも寒さにも参ってしまったことはありません。
皆さまも、どうぞ夏の暑さが与えてくれるエネルギーを上手に取り込んで、お元気に過ごしていただきたいと思います。
さて、食工房の作業場の温度も、いよいよ猛烈になって来ました。
氷をしゃぶりながらやっていても、全然物足りないくらい暑いです。
いっそ頭から水をかぶりたいくらいですが、それでは作業が出来ませんので仕方ありません。
それより問題なのは、作業後にいつまでもオーブンの温度が下がらないので、閉店後も戸締りが出来ないことです。
扉を開けて放熱しただけでは、もうどうにもなりませんので、今日はとうとう扇風機を出して、オーブンの中に向けて風を送り込んで、この時間もまだ強制空冷しています。
その間ずっと、交代で開け放しにしてある店に出て番をしています。
今夜は、星空がきれいなので、店の前の外でお空眺めも楽しめそうです。
さて、これを書き終えたら交代番です。
お知らせ
あさっては、第二回目の「真夏のカレーパーティー」です。
ほぼ定員いっぱいとなりましたが、あと1、2名の余裕があります。参加ご希望の方は、お早めにご連絡ください。
戦争を語ってくれた人たち その2
※習慣コーヒー通信は、お休みします。
今回は、今は亡き私の父の話です。
私が小さい子どもの頃と言えば、戦争が終わってやっと十年を過ぎた頃で、まだまだ人々の心にも、周りの風景にも、戦争の記憶が色濃く残っていました。
正月に、大人たちが集まって酒が回ると、必ずと言って良いくらい軍歌を歌い、戦争の時の話をしていました。
話の中身は、子どもの私にはよく分かりませんでしたが、ある時、どうやらそれは中国人たちのところへ物品を徴用しに行った時の話のようでした。
中国人たちが戸惑う様子を、面白おかしく話していました。
ゲラゲラと大きな笑い声も聞こえていました。
父は、そんな話にただ愛想笑いを返しながら、黙って聞き役に回っていました。
父は、戦争前18歳の時、単身旧満州に渡り満鉄(満州鉄道)に入社しました。
鉄道学校で研修の後機関士になり、途中現地で応召入隊し、朝鮮半島で警備の任務に着いたこともありましたが、その後は復員するまでずっと鉄道員でした。
その父の戦争の話は、ほとんど満鉄の汽車の話ばかりでした。
今も、古い写真帖には、鉄道マニアが喜びそうな大型の蒸気機関車と一緒に若き日の父が写った写真が、何枚か残っています。
そんな父に、一度だけ恐ろしい話を聞いたことがあります。
何かの話のはすずみで、昔は侍が人の首を斬ったものだという話になり、私が、首を斬られたら人間はどんな風になるのかと尋ねたところ、父はそういう写真を見たことがあると言いました。
首を切られて血が噴き出していたり、胴体を切断されて背骨がむき出しになっている写真だったそうです。
終戦の頃、父は、夥しい数のそういう写真を、コンクリートで固めて処分する作業をさせられたそうです。
その時は、怖い話だと思ってそれきりでしたが、後年私が大人になって父も亡くなってからのことですが、ひょっとしてあれは、かの悪名高き731部隊の証拠隠滅に借り出されたということではなかったかと思い当たりました。
その戦争が終わってもしばらくの間、父は、捕虜となってシベリアに送られて行く、友軍の元兵士たちの輸送に当らねばなりませんでした。
そしてその命令を解かれ、やっと日本に帰って来られることになった時のことが、父の遺品の中に見つけた小文の中に語られていましたので、紹介させていただきます。
「夏の想い出」
昭和二十一年七月、私達は祖国へ引き揚げる為、中国コロ島の港に集結していた。
乗船の日が来て、私は引率していた三百名近い、旧満鉄青年隊員と一緒に、真夏の太陽が容赦なく照りつける岸壁の広場で、中国軍から所持品の検査を受けていた。
検査が終わると青年将校が、私のところへ来て日本語で、「お尋ねしたい事があるので、集合させて欲しい。暑いので木陰のあるところがよいでしょう。」と言う。
言われたとおり木陰に集まると、腰を下ろして楽な姿勢でとすすめ、「今、貴男方の持ち物を検査しましたが、理解に苦しむことがある。それは、貴男方の荷物の中には一冊の本も見当たらない事です。どうしてですか。」と尋ねた。
皆黙っていると、私に、「貴男は、本を持つことを禁じたのですか。」と言う。
「食料品や日用品が、より大切と思いましたので。」と答えると、「それは解ります。しかし、煙草だけはみんな沢山持っておられるようだが。」と言われて、返す言葉はなかった。
「乗船までは時間があります。少しお話しましょう。貴男方は、戦争に敗けたからと言って、何もかも間違っていたと投げ出してしまうべきではない。我々が敵とするのは、日本の軍国主義であり、貴男方人民を憎む理由はない。我々青年は、互いに手をたずさえてゆくべきであり、朋友である。日本へ帰ったら、持つべきものと棄て去るべきものの選択を誤らないよう、新しい日本を再建してください。いつの日か、又会いましょう。」
以上のような要旨であったが、心の底から参った、参りましたと、魂に灼きついた。
あの時から三十年の歳月は、日本を世界の経済大国に成長させ、中国も世界列強の一つに飛躍した。
中国孤児が、日本に帰りまた訪れ養父母を語る時、あの日彼が言った、貴男方人民を憎む理由はないと言った言葉の真実を尊く想う。
日中互いに手をたずさえ、友好平和に邁進しつつあるかにみえる最近、「軍国主義は中国の敵」と、大陸から冷たいコールが、今年の夏を例年にない低温にしている大陸高気圧の張り出しにも似て、日本に届いていることを残念に思う。
我々は、彼の言った、棄て去るべきものの重大さを、中国の人の立場から、もっと深くかみしめるべきではないだろうか。
(昭和57年8月12日、NHK松山放送局・午後のロータリーにて放送さる。)
サルミアッキ
大好きなフィンランドの、ひょっとすると大嫌いなお菓子になるかも知れなかった、「サルミアッキ」をとうとう口に入れました。
「高野通信10号」で紹介した、世界一不味い飴「サルミアッキ」・・・。
<参照> ※ダウンロードに少し時間がかかります。
奇食ハンターを自称する方のブログに、折り紙つきで紹介されています。
<参照>
でも、これがフィンランドでは、国民的に愛されているお菓子なのだそうです。
さて、これを口に入れることになった経緯は、高野通信の記事を読んだ食工房のファンの方が、近々北欧に旅行に行くので、その時には是非ともサルミアッキを体験したいと仰って、そしてお出かけになりました。
つい先日、お帰りになられたようで、送られて来た小箱には、可愛らしいムーミンやトントの小物とそしてサルミアッキが入っていました。
「おお!とうとう来たか。」と覚悟を決めて、先ずは写真を撮り、そして口に・・・。
ん、意外や意外、けっこうイケるじゃん、とその後に口の中に広がる妙な香りは・・・。
さあさあ皆さん!サルミアッキを体験したい方は食工房へ。
先着30名様のお口に、世界一不味い飴「サルミアッキ」を入れて差し上げます。
今日は、これが届いたおかげで他の話題は皆どこかへ吹っ飛んでしまった我が家でした。
長い一日
今日は、まず朝は地域の「人足」と呼ばれる奉仕作業から一日が始まりました。
道路の路肩や法面の草刈りを二時間余りやった後、消火栓の使い方を放水体験まで含めてやりました。
さらにその後は、消火器の使い方の練習と救急救護法の講習と体験もやりました。
今地方では、道路整備の一部、防災や救難救助なども、自分たちで出来ることは自分たちでやらなくてはならない状況に入って来ています。
我が集落でも、具体的に市民防災組織の確立を考えているようです。
さて、午前中一杯かかってそれが終わり、今度は「真夏のカレーパーティー」です。
仕込みは昨日のうちにやっておきましたが、会場が離れていますので、車に荷物を積み込んで移動です。
予定の2時までには、だいたい準備が出来ましたが、大人数への対応に慣れているわけではありませんので、初めのうちちょっと混乱しました。
でも、皆さんのご協力で大変楽しい会になりました。
このときの様子は、CHAブログや参加された方のブログなどにいっぱい紹介されると思いますので、私は、とりあえず簡単にこのくらいで。
と言うより、スタッフに徹していましたので、写真を撮ったりする暇もありませんでした。
で、ちょっとの合間に家に戻って来て、このブログを書いた後は、もう一度カレーパーティーの会場に戻って、友人のMさんのバースデーパーティーをやります。
今、ちょっと頭の中がお祭り状態です。
多分、これで完全に風邪っ気が抜けてくれると思っています。
さて、いよいよブログカウンターが10000ヒットに到達します。
プレゼント欲しい方は、<7/26の記事>をもう一度読んで応募してくださいね。
さあ、これからです。
長女が昨日運転免許をもらって来ましたので、今日は用足しを兼ねて運転ぶりを見させてもらいました。
何と言っても、運転に習熟するのは免許を取ってからのことですから、自分の安全だけでなく、周囲の安全にも気が回るようになるまで、しっかりサポートしてやろうと思っています。
今度からは、街で初心者マークの車を見る目に、また一段と配慮が加わりそうです。
かく言う私、ある時まではものすごい飛ばし屋だったんです。
違反も事故も、何度も経験しています。
しょっちゅう遅い車を煽ったりして、さぞかし迷惑なことだったろうと反省しています。
危ない目にも遭って、よく今まで生きていたものだと思います。
その運転を全く変えたきっかけは、高速バスに乗ったことでした。
東名高速を夜行バスで高知まで旅したのですが、このバスの運転にはぞっこん参りました。
とにかくスムーズ、不安を感じさせない、それでいてそこそこ速いんです。
それからというもの、私は運転席でコップが倒れないような走り方をしてみようと思うようになりました。
そのための配慮は、いろいろな意味で交通安全に貢献すると思えるからです。
車を走らせることって、本当はすごく危険なことなんですね。
もっともっと、運転者はそのことを自覚しなくてはならないのだと思っています。
文学系理論家と工学系ロマンチスト
こんな例に当てはまる人が、案外いるものだと思っています。
もちろん、人間にこの二種類しかいないということではありません。
でも、私の記憶の中では、ああ、あの人は・・・、うん、この人は・・・、とほとんどどちらかに当てはまります。
ここで言う文学系とは、文科系と言ってもいいですし、工学系は理工系と言ってもいい、そんな意味合いです。
物理学的興味にのめり込んでいる人が、裏ですごいロマンチストで直感的な人だったり、人文学的興味に没頭する人が、一方ですごく堅い持論を持っていたりするものだと言っているわけです。
で、私はどちらかと言うと、間違いなく工学系ロマンチストだと自覚しています。
どちらかと言うとモノと向き合っていた方が気が楽、ものごとに精緻さを追求する傾向が強い、人付き合いが苦手で、恋愛となるともう全く気が利かない・・・、こうして並べてみると分かるでしょう。
裏返せば、すごくシャイでナイーブ、さみしがり屋なんです。
モノに興味が行くのは、肩代わりさせているんだって分かっていただけますよね。
これがロマンチストの下地だって理解出来るでしょう。
でもおかげさまで、一方で私は、何でも知っているとか、何でも出来る人だと言われて、羨まれたりするわけです。(本当は、ただ浅く広く、芸達者に見えるだけなんですが・・・。)
若い頃の私は、私とは逆のキャラクターの友人知人を、ことごとく羨ましいと思ったものです。
彼らには逆の悩みがあったか無かったか、それは知りませんが、この歳になって思うことは、どっちも一長一短、そしてお互いに無いものねだりをするものだということです。
どうしてなんでしょう?というより、それがバランスというものなんでしょうね。
「天はニ物を与えず。」と言いますが、全くその通りです。神様は、公平なんです。
あとは、それを自覚出来るかどうかだけですね。
宇宙船に乗って
昨夜は、この春住まいを移した知人の新居で、引越し祝いをすることになり、お邪魔して来ました。
そこは、「沼の平」という地名が不思議に思える、急傾斜地に開けた集落です。
集落の中の一番高い場所にある、その方の家に登って行く細道は、庭先で突然行き止まりになっていました。
そこから空に向かって広がる風景は、「人間の世界はここまで、ここは天と地の境目。」と告げているようでした。
そして眼下の谷間の遥か先には、会津若松の街がかすんで見えているのだと、その方が教えてくれました。
実は、夕方まだ明るいうちからお邪魔していたのですが、やがて暗くなり星々が現れると、私は自分が不思議な高揚感の中にいることに気づきました。
自分が立っている地面は、周りの山ごと星々の間を航海中の船なのだと思えました。
素晴らしい速度で進んで行くのが分かりました。
下の方に目をやると、こぼれた星屑のように遠くの街明かりが、無音の中に散らばっていました。
確かにあそこには、何千何万の車と人がひしめいて、明るくてにぎやかに違いないのです。
同じ地上に、こんなにも様子の違う場所が同時に存在していることに、とても不思議な感じがしました。
庭先ではずっと皆の楽しいおしゃべりが続き、私もその中に混ざっていたはずなのですが、風邪で少しぼんやりしていたせいでしょうか、意識は半分宇宙船に乗って漂っていました。
本日の食工房
今日は、自動車教習所に通っている長女がいよいよ終了検定ということで、木曜日でしたが休まずに教習所の方に出かけましたので、作業場は大混乱となりました。
でも、おかげさまで無事合格。
明日は、早々と郡山の試験場に出かけて、合格すれば早速免許証をもらえる手はずです。
明日も忙しい一日になりそうです。
戦争を語ってくれた人たち その1
毎年この時期になると、先の戦争のこと、広島と長崎に投下された原子爆弾のこと、そして平和の大切さについていろいろと語られます。
今五十台半ばを生きている私の世代は、親たちが戦争体験者で、父たちは兵士として実際に銃を手にした人たちでありました。
私たちは子どもの頃からずっと、何かにつけあの戦争のことを語り聞かされたものです。
だから、直接戦争体験はなくても、おぼろげながら戦争の悲惨さを感じ取ることが出来たと思っています。
しかしもうこの先、私たちがいなくなれば、戦争体験者はおろか、直接話を聞いた者もいないということになりますね。
この際、私の聞いた話しを、少しでも多くの方の記憶に留めることが出来ればと思い、この場に公開申し上げることにしました。
少し長文になるかと思いますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
この話しを語ってくれた方、すでに故人となられましたが、仮にKさんとしておきます。
私がKさんから話しを聞いたのは、もう20年近く前のことになります。
Kさんは、あの第二次世界大戦当時、若き将校の一人として、中国の南京で任務に着いていたそうです。
残念ながら、具体的に階級が何だったか、聞いたような気もしますが思い出せません。
南京は、当時あの大虐殺事件があったとされている場所です。
戦争も末期の頃、Kさんは捕虜の中国兵を毎日15人(50人だったかも知れませんが、記憶が確かではありません。)ずつ処刑するよう命令を受けたそうです。
Kさんは良心の呵責を感じつつも、部下に処刑を実行させる日々が続いたそうです。
話しは前後しますが、Kさんが着任した時まずやったことは、現地の女性と結婚することだったそうです。
現地の女性を妻に迎えることにより、その両親や兄弟たちは自分の家族となり、多くの血族たちと親戚になりますから、それは身の安全を保証する上で一番確かな方法だったそうです。
それに中国人女性は貞節で、一度妻となれば我が身を呈して夫の生命を守ると言われたそうです。
そのようなわけで、護身のために現地人妻を持つというのが、将校たちの常套手段であったそうです。
(※このことが何を意味しているか、あえてこの場では申し上げません。)
一方、Kさんは任務の合間に私財を投じて現地の子ども達のために小さな学校を開き、日本語を教えたり(これが大義名分になったのだと思います。)算数や理科なども教えて、現地の人たちに感謝されることもあったそうです。
さて、日本の敗戦で戦争が終結した時、Kさんは捕虜となり数日のうちの処刑が決まっていました。
そこへ、現地の人たちから助命嘆願が出され、それが認められて一命を得、無事帰国することが出来たということです。
それから四十年近い歳月を経て、日中国交正常化が成って間もなくの頃、Kさんは中国旅行ツアーに参加してあちこち回ったそうです。
中国語をしゃべれるKさんは、行く先々で「中国語がお上手ですね。どこで覚えたのですか?」と質問されました。
最初にその質問に合った時、Kさんは何も考えず正直に、自分が先の戦争で南京にいたことを話したそうです。
そのとたん、その場の雰囲気が凍り付き、周りにいた人々が厳しい視線をKさんに向けているのに気づき、頭の中が真っ白になってしまったそうです。
それからは、同じ質問には「日中の国交が回復したので、ぜひとも中国を訪れたいと思い、そのために一生懸命中国語を勉強したのです。」と言うことにしたら、どこでも拍手喝采を浴びたそうです。
今でも思いますが、Kさんが作り話をしたとはとても考えられません。
細かいところに少々の記憶違いがあったとしても、大方そのとおりだったに違いありません。
そしてまた何でそんな話しを、私に聞かせたのでしょうね。
自分一人の胸にしまっておくには重すぎる記憶だったのでしょうか。
それとも、決してあの人たちは忘れてはいない、我々は過去に対して軽率であってはならないと言いたかったのでしょうか。
戦争の残す傷は、どこまでも深く人々の記憶に残るものだと思います。
そしてその業は、世代を超えて乗り移り、ますます重い課題となり続けるもののようです。