日別アーカイブ: 2016年6月26日

熊出没のニュースの度に思うこと

今年は春も早い頃から、熊出没のニュースを度々見聞きします。
特に最近になって、ほぼ毎日のように、全国のあちらこちらで熊出没があり、人的被害も出ています。

我が家の周辺でも、熊出没の話題は日常茶飯で、今日もどこだかの民家の玄関先に熊が出たと、テレビのニュースで報じられたと、人の話に聞きました。
知人の一人は、近頃、熊は全く人を恐れていないように思えて、とても怖いと言っていました。
実際、熊は人を恐れなくなってしまったのではないか・・・、私もそのように思います。

しかし、そもそも野生動物たちが人を恐れるのだという我々の思い込みは、本当に当たっているのかどうか、少し考え直して見なくてはならないのではないか・・・、そのことを強く思う私です。

本来、人はとても弱い生き物です。
身体的能力という点で見れば、走る、跳ぶ、掴む、持ち上げる、噛む等々、どれ一つ取っても、動物たちに勝るものは無いのですね。
走るということ一つを取っても、スポーツ選手でもなければ、猫にさえ追い付けないでしょう。

それでも人は、文明以前からこの自然界の中で生き延びてきたわけで、その昔、人がどのように獣たちと渡り合って来たか、想像の域を出ないにしても、今こそそれをしっかりと考察して見る必要があるのだろうと思っています。
この自然界の中で、今まで人が優位でいられたのは何故なのだろう、それは一朝一夕に獲得出来たことのか、あるいは長い年月を要したのか、多分後者だろうと私は思います。

我々の先祖が、それこそ何万年、否、何十万年をかけて、獣たちのあるものには攻撃と脅しをもって、あるものには餌付けと飼い慣らしをもって、自分たちの食糧にすることや、良き伴侶として役に立てるということを、まさに延々と続けて来たのでしょう。
そうやって、獣たちが遺伝子レベルで人に対する警戒心や服従心を持つまでに、関係性を築いて来たということなのだと思います。
そのためには、不断の努力が必要であったはずで、怠ればたちまち危険な状況が待ち構えていたに違いありません。
そうなるまでに、一体どれほどの人の命が失われたのか、何人喰われたのか・・・。

そこで狩猟の意味を考えれば、それは単に食糧調達の目的というより、我々の安全保障としての目的の方がより重要だったのではないかと思えます。
狩猟民の常識として、一度人を襲った獣は、必ず仕留めて葬るという掟があるのですが、大変尤もだと思います。
一度人を襲った獣は、人が弱い生き物であることを知ってしまったかも知れないからです。
それを逃してしまえば、子孫の中に人を恐れない個体が出現する可能性があることを、我々の先祖は知っていたのですね。

そうして考えると、今この時代に、あちこちに熊が出没して人を恐れなくなっていることは、実に由々しき一大事に違いないはずですが、どうも私たちは認識不足というか、能天気というか、成す術がないのですね。
そして考えていることも、全く的外れです。

そうあって欲しくないことですが、野生動物と人の関係は、ごく最近、ある一線を越えて崩壊のプロセスに入ったのではないかと、私は思っています。
とても危険な状況が、もう目の前に迫っているのではないか・・・。

つい先日、首都圏の相模原市で熊が出没したと報じられましたが、今後、野生動物の出没は田舎に限られるものではないということを知るべきでしょう。
人が積極的に対応しないでいれば、どこでも獣たちは躊躇なく侵入して来るはずです。

では一体どのように対応するのか・・・。
残念ながら、私には、今一つ良く分かりません。
だから、いろいろな言い伝えなど残っている知識のかけらを拾い集めたり、想像力を働かせたりしながら、試行錯誤するしかないと思っているのです。

もし今、私が若者だったら、狩猟免許の取得と猟銃所持を実現させるでしょう。
しかし野生の生き物たちとの付き合いは、攻撃と脅しが全てではありません。

人に対する畏怖の念を喚起させる手管が、実は沢山あるようなのです。
さらには、畏怖の念どころか感謝の念を抱かせるような、付き合い方も・・・。

人が生きる意味は、実はそのあたりにあるのかも・・・なんて思ったりする私です。

檻罠撤去

あれから3週間が過ぎ、熊を捕獲することが出来ないまま、罠はいったん撤去となりました。
再び出没の痕跡や農作物の被害があれば、もう一度申請しなおして再設置です。

罠がなくなったので、きっとまた出てくるかも・・・。
今日は、また裏の林で火を焚いています。