ブログの欠点と言うか宿命として、時間と共に過去に書いた記事が埋もれてしまうことは避けられません。
今朝、昔の記事を読み直していました。
まるで他人が書いたものを読むような、不思議な感覚がありました。
そして自分の記事に相槌を打つという、これまた変な感覚。
それはどんな記事だったか・・・。
お付き合いください。
2008年9月の記事二題です。
見せかけの自由選択と自己責任
「見せかけの自由選択と自己責任」。
今、そしてこれからの時代を、象徴的に言い表そうとするならこういうことになると、私は思っています。
本来なら、自由選択と自己責任、それは個人の生き方として、社会のあり方として、一つの理想かも知れません。
しかし今の社会で、否世界で、本当に自由な選択が可能なのか、あるいは許されているのか、それが確実に保証されなければ、あとに続く自己責任を問うことは出来ませんね。
今この国では、規制緩和の名の元に何もかもを競争に委ねようとしています。
「自由競争」と言う言葉が、如何にも説得力のある響きを持って語られますが、その自由とはどういう意味なのでしょう。
全ての人に平等なチャンスの下に競う、と言うのが本来の意味でしょうか。
それならそれでいいかも知れませんが、本当にチャンスは平等なのでしょうか。
そうじゃないことは、もうバレバレですね。
かなり嫌味な言い方ですけれど、自由競争の「自由」とは、勝つためにはどんな手段を使おうと「自由」、勝者がさらに勝ち続けるために、どのようにルールを変えるのも「自由」、そんな風にしか思えません。
今ますます、「金」の力で全てが動く社会になりつつある中、政治はもはや経済に対して干渉する力を失っているように見えます。
そんな時代に私たちは、何の保護も規制もないところに投げ出されて、自由とは名ばかりの選択を次々と迫られ、自己責任だけが問われることになりそうな気がしています。
そんな時代の到来を感じる今、自分にとって「幸福」とは何か、実は一人一人の幸福論が、この世界の命運を分けているのだと気づいた私です。
自分の命は自分で守る
今の私たちにとって、最大の関心事の一つは「心身の健康」、そしてこれから先をどうやって健全に生きのびて行くかということじゃないかと思います。
一昨日、「見せかけの自由選択と自己責任」という記事を書きましたが、それに関連して今そしてこれから先の時代に、最も重みのある響きを持つキーワードは、「自分の命は自分で守る」ということになると思います。
この格差の時代にあって、個々人の命の守り方もいろいろ違ってくると思います。
例えば、病気という脅威に対して、ある人は望める限りの高度な医療に委ねようとするでしょう。
一方、その機会に恵まれない人もいて、その場合は命の覚悟を迫られることもあるかも知れません。
この国で、それもこれから老齢期を迎える私の世代の者は、必ずしも福祉に頼るわけに行かず、自分の命を自分で守るしかないところに投げ出されることになるだろうと思っています。
その時、十分な資産を蓄えている人には、いくつかの選択肢があるでしょう。
でも、私のように毎日を食いつなぐのが精一杯の人間には、多分選択の余地はありません。
私にとって、残される一つにして最高の希望の道は、この母なる大地の懐に身を委ね、寄り添い、己の命に覚悟を決めて生きることです。
だから、食と健康のこと、生活習慣と健康のこと、自然の営みと成り立ちについて、諸々勉強することに対して貪欲なことでは、誰にも負けないと思っています。
そうやって勉強したことが、ひょっとして多くの方のお役に立つことがあるかも知れない、発表しようかと思うこともあるのですが、そんなことをして明日にもぽっくり死んでしまったら説得力も何も無く、ただの恥さらしですから、やっぱりもう少し勉強が足りるまで、今はまだ黙っていようと思います。
そうですね、もし私がいい死に方をしたら誰かに拾い上げてもらえるよう、書き残しておこうかなと思っています。
その前に、先ずはその逆にならないよう、心がけなくてはなりませんね。