高野通信」カテゴリーアーカイブ

ファーブル農法

今日も畑に出てて、草取りをしたり、植え付けをしたりしていました。

そう、その草取りで思い出す金言があります。
曰く「上農は、草を見ずして草を取り。中農は、草を見て草を取り。下農は、草を見て草を取らず。」とか。
これはもう30年近くも前、千葉県のある農家のカモイの上に掲げられていたのを見て以来、いろいろな意味で忘れられない金言となりました。
当時、無農薬有機栽培や自然農法の話しを聞きかじっていた私はその金言を見て、「フン!何を浅はかな・・。」と密かにせせら笑ったものです。
「たわけ、不耕起無除草こそ上農の極致よ!」と不遜な言葉を口走りそうなのを、やっとこらえていました。
あれから30年近く、阿武隈山中での山暮らしも含めて、農作業や自然との付き合い方への体験が深まり、そしてごく最近この金言に全く違った意味を見出した私です。


物事を空の高みから眺めた時、つまり大局的視野に立つと、この世界には一つの無駄も不足も無いと、よく言われますね。
それはそれで間違いではありませんが、一つ一つの事象の詳細に立ち入ると、そこには様々な不均衡があり、無駄や不足が生じているのですね。
そう、先日も申し上げたように、ディテール<参照>に触れないことには、真実に迫ることは出来ません。


話しが大上段に行ってしまいましたが、草取りということで申し上げると。
自然農法の実践家の方もすでに認めているように、雑草を全くコントロールしないで作物を育てることは、全くとは言いませんがほとんど不可能です。
雑草がない方が、明らかに作物は旺盛に育ちます。
収量も上がります。


そこで私は思ったわけです。
耕運機も除草剤も無い遠い昔の金言ですから、それはどんな意味合いだったのか・・・。
草を見ずして草を取るとは、雑草が生い茂ってしまわない環境を時間をかけて、こつこつと整えて行くことを言っているのではないかと。


そのためには、まだ芽吹いたばかりの雑草を、丁寧に見落とさずに摘んでおくことがとても大切です。
そして一口に雑草と言いますが、実に多種多様です。
その中には、放っておけばすっかり作物を飲み込んで、一面に蔓延ってしかも強力に根を張って取り除くために莫大な労力を要し、次の年もその次の年も頼みもしないのに旺盛に萌え出て来る奴らがいます。
そんなものをそのままにしておいて作物を育てるのは、難しいと言うより端から不可能です。
耕運機と除草剤のお世話にならずに、せいぜい鍬一本でやろうと思ったら、それこそ頭と体を使わなくてはなりません。

そして、これが一番大切と思うことは、丁寧な観察です。
あの昆虫記で有名なファーブルさんのように、わけが解るまで飽きずに観察することだと、今日畑にいて思わず大きく頷いてしまった私です。

頭を冷やす


Intel  C2Quad 9650


人間の脳は、高性能のPCと同じくらい熱を出しているとか!?
いや、こんなのよりもっとすごいのでは?何しろ水(血液)冷式ですらね。


このところずっとテンションがかかりっ放しという気がしています。
この間、「バランスも大切」という記事の中で、何もしない時間とのバランスということを申し上げましたけど、最近これが決定的に欠けているという気がします。
何もしないと言っても、考え事くらいするだろう?と言われそうですが、それもしないで頭を冷やすことが出来たら、と思うのです。
この今の世の中にいて、そういう時間を求めることは贅沢の中の贅沢と思われている節がありますが、人は誰でも、いよいよとなったら病気してでも怪我してでも強制終了思考停止になりますから、せめてそうなる前にバランスを取りたいのですね。


私たちは生きている限り、心臓は動き続けているし、脳だって機能停止することはないのですが、行動をコントロールする緊張から解放され思考という作業も休止し、なお且つ眠っているのではなく覚醒している時、ちょっと特別な状態になるみたいです。
感覚だけが残って、普段感じ取れないいろいろなサインを受け取ることが出来るのですね。
そういう状態がいつも継続しているのが、修行僧とか呪術師とか、あるいは芸術家なのかも知れません。
凡人の私たちも、たまにその片鱗にくらい触れてみるのは、必要なことなんじゃないかと思うのです。
山に暮らしていた頃、そうかなと思える瞬間に何度か巡り合ったことがあって、今そういう感覚からすっかり遠ざかっている自分は、例えて言うと「目隠しされている」ような不安を時々感じます。
寝ている時に見る夢にも、いろいろな啓示が含まれていると言われますが、それとはまた違う感覚が懐かしく思い出されます。


ああ、こんなことを書き続けていると「Mikioさん、ホントにアタマをヒヤした方がいいんじゃない!」と言われてしまいそうです。
否、真面目に頭を冷やしたいと思っている私です。

マイブログ中間報告vol.13

この前の中間報告で、間もなく10万ヒット達成と申し上げました。
その後淡々と10万ヒットを通過し、現在は11万を越したところです。

それでもう丸2年と3ヶ月、この間私が一番心残りに思って来たことは、紙に印刷して発刊していた「高野通信」が、以来ずっと休刊になっていることです。
代わって「食工房のパンだより」は、ほぼ毎月出しているのですが・・・。
※途中、2回ほど抜けています。

まあ、それで飯を喰っている以上、業務優先のスタンスも止むを得ないとは思うものの、ブログでは書けないような、ゆっくりと時間をかけて熟成させた記事を書いて、皆さんに訴えたいこともないわけではないのです。
贅沢な話しかも知れませんけど、もう少し時間に余裕があればと思います。

かく言う私、文章を書くのは嫌いではありません。
ただし、詩や小説、あるいは俳句、和歌など文芸には、とんとセンスがありませんが。
その代わり具体的事柄の解説や報告なら、いくらでもスムースに筆が動きます。

正直、文筆で飯が喰えるなら、大げさな道具も必要なくていいんだけど・・・、と思ったりします。
まあでも、そうなっていないということは、私はやっぱり手触りのあるモノに触っている方が、さらに性に合っているということなのでしょうね。
いろいろやり尽くして見て、それでもまだ命が残っていたら、その時は本当に文筆で飯が喰えるかも知れない?などと、老いたその先のことをイメージしています。


とにかく今は、パン屋です。
そしてブログは、商売道具的な意味合いの中にも、最大限余計なもの(?)を取り込みつつ、続けて行きたいと思っています。
どうぞ、今後ともよろしくお付き合いください。



一度使った古い写真ですみません。 夏椿(沙羅)の新緑です。 


ばあちゃん農法


きぬさやエンドウ豆の発芽です。
毎年眺める度に、可愛らしいと思います。



こちらはインゲンです。
動物でも植物でも、幼生は皆同じ
オーラを放っているのを感じます。


近頃は、「○○農法」と呼び名を付けてこだわりを誇示するのが流行りのようです。
天然農法、自然農法というのは、ずい分前に提唱した偉い先生がいらして、沢山の志願者が扉を叩いてその門をくぐった実績もあります。
私はその昔、本を読んだことがある程度ですが、確かに天然自然の営み計らいを最大限生かして、農薬や化学肥料、ビニールなどの資材、さらには耕運機、トラクターなどの農業機械も使うことなく、耕さず草も取らず、それで作物を収穫出来るなら、それはすごいことです。
そう考えていて、採取と農耕の違いは何かという問いが浮かびました。
今日、庭の草取りをしながら娘と交わした会話の中で、「要らないものを取り除く知恵を持っているのが人間なんだね。」と私。
「動物は、欲しいものだけを取るからね。」と娘。
だから、羊を放牧する時は常に移動して行かないと、その場所には食べられない毒草ばかりが増えることになるのですね。
農耕は、直ぐに欲しいものに手を出さず、不要なものを取り除いて食べられるものだけが増えやすいように計らうこと、だと言えるのではないでしょうか。
ここでもやはり、大切なのはバランスでしょうね。
自分に出来る範囲で理想を求めると、私の場合は「ばあちゃん農法」ということになりました。
そうです。
ここいらのご近所のおばあちゃんたちのやり方を真似て、分からないことはその場で手ほどきしてもらう。
人によって少しずつやり方が違っている時は、自分の考えや判断も加味して結論を出す。
こうやって、採りはぐりがないことを最優先に安全性も考慮しつつ、その場その場に臨機応変して行くことにしています。



ごぼうを蒔きました。畝は高くすると教わりました。



真っ直ぐに植えなくてはならないという決りはりませんが、
ガイドロープを張ってまでも真っ直ぐ植えたいのは、美学です。
と言いつつ、ロープからズレてしまっているのが悲しい・・・。


今日は、合間に庭の草刈りもしました。
何故、草を刈らなくてはならないか?
家の周りを草茫々にしておくと、第一に湿気がこもって家が傷みます。
蚊など、虫がわいて大変です。
そして、清々して気持ちがいいからです。


 



残して置きたいものは残すのは、人間のエゴでしょうか。


 

バランスも大切!?

昨日、「重箱の隅をつつくのが好き。」と申し上げましたが、例えば洗い物の水切りカゴの網目に溜まった汚れを、小さなブラシで落とすなんてことにはまり込んでしまう習性が、この私にはあるようなのです。
すっかりきれいになるまで、あるいは根気が尽きるまで、どうにも止められないことがあります。
気がつくと、本当に一円にもならない仕事に、本気で精力を傾けているのです。

今朝も、危なく本題のクッキー焼きの仕事のスタートが遅れるところでした。
限りある時間と体力気力の配分を考えないと、ご飯を食べ損なってしまいます。

これに類することは、私の日常にはしばしば発生するので、そういう時は「バランスも大切。」という言葉が金言となります。
それでもさすがに歳を食ったので、近頃はずい分バランスが良くなったはずだと、自分では思っていますが周りから見るといかがなものでしょう。

そして、こうして何かをすること同士のバランスが良かったとしても、最後にはやっぱり疲れて、何もしない時間とのバランスも大切な時があるということですね。

「縁までいっぱい注いだ酒を、こぼさずに飲むことは出来ない。」と、こんな例えでいかがでしょう。
「無駄」の大切さも重々承知しているつもりです。

重箱の隅をつつく

「重箱の隅をつつく。」と言うと、あまり良い印象を例えた言葉ではありませんね。
細かいことに煩いばかりで、全体的視野に欠けている人を揶揄する時に使います。
しかしこれも解釈のしようです。

例えば職人的な仕事は、重箱の隅をつつくことの繰り返しみたいなところがあります。
似たような例えで、枝葉末節という言い方がありますが、私の仕事なんか毎日枝葉末節に関わることで終わってしまいます。
大道というのは、たいてい見えない所にあるもので、私の場合なら、無添加、天然酵母、オーガニック原材料などなど、仕事に臨む姿勢のことを指していると思っています。
それはもう何を語る以前に承知の皆さまとのお約束ですから、日常の具体的な仕事の最中に関わるのは、極極具体的な細かい作業の一つ一つ、つまり枝葉末節であるわけです。

私は、どちらかと言うとものごとは枝葉末節の積み重なりで出来上がって行くものだと思っています。
毎日の繰り返しによって、やがてそこに道が生まれるということじゃないかと、そう思うのですね。
もちろんその前に、辿り着きたいところへの願望と言うか、イメージはあるわけですが・・・。

ところでちょっと話しがズレるかも知れませんが、部屋の掃除をする時、きれいに見えるためには、とにかく角をきれいに掃くことだと言われますね。
本当にそのとおりです。
窓枠に乗っているちょっとした埃を丁寧に拭いておくだけで、部屋全体の印象が変わって見えたりすることが、実際よくあるのですね。

ディテール / detail という英語がありますが、私の好きな言葉です。
物事の詳細という意味でよく使われます。
私は、まさに物事はディテールの集成だと思うのですね。
どんな小さな一角でも、丁寧に関わった物事というのは、絶対に見え方が違うし良い結果が出ているものだと確信しています。

そうは言いつつ、いつでも完璧を望むのは無理だということも、もちろん分かっていますが少なくとも、「重箱の隅をつつく。」あるいは「枝葉末節」という言葉を、手抜きの方便に使うことだけは絶対にしないと、肝に銘じている私です。

私、どちらかと言うと、重箱の隅をつつくのが好きです。


 



先日のチゴユリの detail



  この写真から分かることは、
  雄しべの先端のヤクはまだ開いていないこと。
  雄しべの一つが、何らかの理由で未熟なまま死んでしまっていること。
  雌しべも、まだ受粉の準備が出来ていないこと。
  つまり、開花直後だということ。
  一目見て初々しく、しかしどことなく弱々しく見えたのは、つまりこういうわけでした。

赤目の心配はなくなりましたが・・・

このブログを書き始めて少し経った頃のことです。
その頃使っていたPCのCRTディスプレイのせいで、目がやられて真っ赤に充血したことが何度もあって、ブログのネタにもなっているのですね。  <参照>

あれからまだしばらくはCRTでしたが、半年くらい前からノートPCをメインに使うようになり、液晶ディスプレーになりました。
CRTの時は、目の保護のために明るさとコントラストを限界まで落として使っていましたので、液晶画面の目に対する負荷の軽さに先ず感激しました。

そして、つい最近導入したデスクトップPCの大画面液晶ディスプレーで大きく表示される文字や記号が、老眼の進んだ目にあまりにも楽に見えることに、もう一度大感激しました。
もちろんそれなりの代償は支払うわけですが、目を病んでしまったら取り返しがつきませんから、そこは納得の上の出費です。

さてそこまでは良かったのですが・・・。
こうしてPC作業が快適になると、PCの前に座っている時間が、つい長くなってしまいます。
これはこれで、また別なリスクを抱えることになってしまいます。
言うまでもなく、運動不足から来る倦怠感と肩凝りなどの症状です。

最近は、経理もPCでやっていますので、PC作業は増える一方です。
事務方を雇うほどのことではないし、個人企業経営者としては、仕事を把握するためにも、PCは自分で管理出来なくては意味がありません。

知り合いの中には、ホームページの管理を他人に任せきりにしていたために、あとでトラブルを抱えることになったという話しを、二三例聞き及んでいます。
そんなことも理由になりますが、PC作業がまた増えます。
私としては、決して嫌な作業ではなく、むしろ次々と興味をそそられる楽しい作業ですが、健康管理上からははっきりマイナスと結論が出ています。

二年前は赤目がブレーキをかけてくれましたが、今度は自己コントロールしなくてはならないようです。


ところで、PC中毒ってあるんでしょうか?
あると思います・・・、私。

花は、野に置け

昨日、私の心を震わせたホウの花、今日は午前中少し閉じて日差しを受けながら、じっとエネルギーを溜めているように見えました。
あとでまた来ようと決めて、用足しに出かけました。

3、4時間後にもう一度行って見ると、花の姿は消えて無くなっていました。
すぐ近くの目線より下に位置していた、大きな蕾も枝ごと無くなっていました。
ひょっとして風で落ちたかもしれないと思って下の方を見ましたが、見つかりませんでした。
疑うのは嫌だけど、人の仕業としか思えない状況・・・。
こんな霊力の強い花に手をかけてよく平気で・・・と、現場にいる間中ザワザワと心が騒ぎました。


そこで思い出したのですが、以前山暮らしをしている時にも、ツツジや山ユリなどが、根こそぎ掘り取られて無くなっている光景を、何度となく目にしたことがあります。
自分の庭に持って行って愛でるのを全て悪とは言いませんが、欲しい気持ちだけで後先考えずに採るのは、環境破壊以外の何物でもありません。

「花は、野に置け。」

私は、この言葉がとても好きです。
せいぜい写真を撮るくらいにしておこう。
それも、よくよく周りに注意を払って・・・。


年に一度、その場所にしかない何かが、確かにあると思っています。

仕事の合間


甘い匂いが漂って、まるでおとぎ話に出て来そうな光景に、頭がポーッとなってしまいました。


一昨日、ウワミズザクラの写真を撮ってからというもの、窓から見える外の様子が気になって仕方がありません。
今日も雨が降らず、暖かく明るい晴天でした。
ホウの花はどうなっただろうかと、見に行きたい気持ちを夕方までこらえて、クッキー焼きを終わらせてすぐ自転車に飛び乗って現場に急ぎました。

昨日の夕方は、まだ蕾のままで今日の開花はないだろうと思えましたが、道行く途中、覚えのあるあの甘い香りが自転車に乗って走っている私の鼻をかすめました。
見回すと、山のあちこちにホウの木があって白い花が点々と見えていることに気づきました。
こんな離れたところまで匂いが漂ってくるとは、何というすごいエネルギーなんだ!と気持ちが高ぶって来るのが分かりました。
そのまま自転車を飛ばして、たどり着いて見るとアッと驚く光景がありました。

明日には満開という状態で一輪。
他はまだ蕾。
どうやら今年は幸先がいいようです。


 



庭のイチョウの新緑もやわらかくていい感じです。


 



先日のイタヤカエデの幹に近づいて見たら、先客がいました。
オオススメバチが3匹、どうやら樹液が出そうなところを探している様子です。(そのうちの一匹、体長4、5cmほど)
ひょっとすると、近くの地面の下に巣があるのかも知れないと思い、怖々退散いたしました。

ウワミズザクラ


本当に美しいと思います。



こちらは、とても可愛く見えます。


 


この季節、山の中は次々と木の花が咲いています。
そして新緑が濃くなるに連れ、白い花が目立ちます。
私の好きなホウの花も、早い所ではもう咲き始めています。
今年、ちょっと狙いを付けている所があって、そちらはまだ蕾です。
今年は、久々にまたホウの花の写真が撮れるでしょうか・・・。


それで、今日は仕事が早めに終わったので、犬の散歩に付き合って近くを歩き回っていると、ウワミズザクラが咲いているのを見つけました。
でもかなりの大木で、花はずーっと高い所にあって、写真を撮るには遠すぎます。
そうしたら上の娘が、別な所でずっと低い位置に咲いていて、写真を撮るのにちょうどいい場所があると教えてくれました。
早速途中から分かれて、その場所に行って見ました。

聞いたとおり、絶好の場所です。
道路沿いの藪にちょっと入っただけで、ご覧に入れたような写真が撮れました。
ちなみに、これは2枚ともノートリミングです。

それで実は、ウワミズザクラには類似した種類がいくつかあって、本当にこれがウワミズザクラかどうか、図鑑で調べてみました。
こういう時、図鑑の写真って結構微妙なんですよね。
もうちょっと、ここのところをよく見せて!と思うところが写っていなかったりします。

そんな時、我が家の取って置きの虎の巻は、「原色牧野植物大図鑑」です。
写真よりも、説明入りのスケッチの方が、はるかに正確で頼りになります。
その結果、これはウワミズザクラかシウリザクラのどちらかだと思われるが、ほぼウワミズザクラに違いないという結論に達しました。

遠くから眺めると、枝に無数のタンポンか毛ブラシのようなものが付いているように見えますが、近寄って見ると小さい花が房状に集まったものであることが分かります。
そして、どんなに小さくても、ちゃんと桜や梅などと同じくバラ科の花の特徴を備えているのが見て取れて、ここでも自然の営みのサプライズに感激する私でした。


そうそうちょっと余談ですが、散歩しながらまた娘に教わりました。
イタヤカエデのイタヤの名の由来は、大きな葉がびっしりと重なっていて水も通さない、つまりこの木の下に入れば雨に濡れないで済む、まるで板の屋根のようだ言うところから「板屋根」・イタヤと呼ばれるようになったとか・・・。
今日は、先日にも増して緑が濃くなっていました