百姓百品、百の姓
以前、農家の友人に「農業と百姓は違うんだよ。」と言われたことがありました。
話を聞いてなるほどと思った私は、以来、人にもそう話しています。
農業は、田畑で作物を作って収入を得る、職業の一つという捉え方、百姓は、田畑で作物を作る他生活に必要なものごとは、ほとんど何でも自分で間に合わせる術を身に付けていて、それを実践している、言わば暮らし方、生き方のことを指しているのだというのですね。
ところで私が子どもの頃、まわりには沢山お百姓さんがいました。
今思い出してみても、本当に何でも出来る人たちでした。
田畑で米や野菜を作ることは言うに及ばず、みそ、しょうゆ造り、豆腐造り、漬け物など食品加工に始まり、山に入れば木の伐り出し、炭焼き、狩猟採取、家の内外ではわら細工、竹細工、家の修繕、道路の補修、機械や道具の手入れ等々、上げればキリがないほどいろいろなことをやっている風景が記憶に残っています。
家の普請も、大工に任せきりということはなく、棟上げなど大きな仕事は村人が多勢手を貸して、自分たちでやっていました。
ですから、物置や家畜小屋などは、自分で建ててしまう人がいくらでもいましたし、石垣の積み方でもコンクリートの打ち方でも、皆良く心得ていました。
「百姓百品、百の姓。」と言うそうで、「何でもやるのが百姓さ!」とその友人は言ったものです。
事実、彼は、自分の家を自分の手で建てましたね。
しかし、高度経済成長のかけ声を聞いてからというもの、お百姓さんたちは次々とお金をもらえる仕事に就くようになり、燃料革命で石油やガスが薪や炭に取って代わると、山で仕事をする人はいなくなってしまいました。
プラスチック製品が安く出回るようになると、わら細工や竹細工で作っていた日用品も廃れてしまいました。
そして今この時代というのは、そうやって何でも出来た人たちが、次々とこの世を去りつつある時なのですね。
私などは、側で見たり話に聞いて知ってはいても、自分でやったことはない世代です。
忘れてはならないのは、今こんなハイテクの時代になっても、技術の最先端の現場では、人の手の巧みさや勘が頼りということがいっぱいあって、その伝承が十分なされていないことに、産業界は危機感を持っているということです。
こうした人の手の巧みさや優れた勘も、元の元を辿れば、どれも百姓百品の中の一つ一つから発達していったものです。
田畑の仕事を単なる職業の一つと捉え、経済的側面の評価にばかりさらすことは、農業を滅ぼす道であり、それはひいては産業を衰退させる道でもあることに、私たちはどのくらい気がついているでしょうか。