そのとおりだと思っています。
とにかく人間、何かをするということは、必ずその中に楽しみを見つけられるものです。
便利ということは、自分では何もしない方向なのですから、当然そういう楽しみも味わえません。
ただ考えなくていい、やらなくていいだけで、便利であることの究極は、「退屈」ということなのです。
だから、その退屈を紛らわすためにつまらぬ娯楽が氾濫するのだと、私は思っています。
子どもの頃、カマドで飯炊きしたり、風呂を焚いたりしたこと、山暮らしの時、やっぱりマキで暮らしていたことは、今でも詳細に覚えていますが、ただ火を燃やすというだけのことが、やってみると分かりますがとても楽しいものです。
それで部屋が暖かくなったり、湯が沸いたり飯が炊けたりするのは、もう無条件にありがたく幸せなことに思えます。
それ以外のことでも、生活のいろいろな場面で、それらが自分の手の中に収まっているということは、何より心強く安心に思えるものです。
いろいろ事情があって、便利な場所で暮すようになり、便利なことのありがたさも沢山味わいましたが、やっぱりそれだけでは満足出来るものではないと思い知りました。
「自給自足」に憧れる人は沢山いますが、それを実現するには、生活を不便な方向へと目指して行けばいいのですね。
便利さも究極に辿り着いたかと思えるこの時代、飲み食いのことだけでなく、着るもの、住む所、生活資材、健康、娯楽にいたるまで、自分の手に取り戻すことは容易ではありませんが、これから先それを目指す価値はきっとあると、私は確信しています。
山の暮らしから離れてこの四年余、生活の建て直しに追われて来ましたが、また少しずついろいろなことを自分の手の中に取り戻して行きたいと思っています。