63年前の広島と長崎における原子爆弾の投下により、人類は初めて核兵器の破壊力の凄まじさと、被害の及ぶ範囲の途方のなさを目の当たりにしたのでした。
実はあの時以来、核兵器は兵器としての存在意義を失ったことに、世界の人々は気づいていませんでした。
その後も原子爆弾の改良(!)が飛躍的に進み、さらには原子爆弾とは比べものにならないほど強大な破壊力を有する水素爆弾が実用化され、1961年には旧ソビエト連邦で、人類史上最強の爆弾となった「ツァーリ・ボンバ」(TNT換算、50メガトンの水素爆弾)の実験を見ることになります。
しかし、核兵器はあまりにも強大に過ぎる破壊力と、後に残る放射能の害の途方のなさ故に、戦争において全面的にそれを使用することは、即ち人類滅亡の道筋に立つことですから、今後核兵器が使われることはほとんどあり得ないでしょうし、核兵器の保有が他国への脅威としておどしの効果を発揮していたことも、もはやウソがばれてしまっていると思います。
それよりも今この時代、核の存在は、別のとても皮肉な形で、限定的ではあるけれども戦争の抑止に貢献しているように思えます。
私たちは、22年前のチェルノブイリにおける原発事故を経験しましたが、その時の放射能汚染は地球規模であり、8000km離れた日本でも放射能が検出されたことを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
このことが何を意味するかと言えば、何も核爆弾の炸裂によらずとも、核の被害を受けることは起こり得るということです。
もしも、原発はもちろん大量の核物質を扱う施設がある国、地域で、戦闘行為が行われ、故意であれ偶発事故であれ核施設が破壊された時は、その規模によっては被害を受ける場所は、この地球上のどこにも限定されないということです。
だからかどうか知りませんが、原発やその他核施設がある国や地域では、戦闘は行われないし起こったこともないのです。
しかしその一方、限定された場所では、より強力になった核兵器以外のありとあらゆる兵器が使用され、全くこの時代に信じられないような破壊の雨が降っているのです。
私はそうした状況に、ここにもまた格差が見えている、しかもそれはとても深刻な出来事であると思っています。
私たちの日本、この国の当面の平和が、広く世界を見渡して、どのような巡り合わせの上に実現しているのか、それを深く理解することは、地球人類の一員でもある私たちの務めであると思っています。
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