日別アーカイブ: 2008年1月3日

改めて「私」を語れば



紅葉の冬芽



私は覚えている限り、やっと物心ついたくらいの小さい子どもの時からずっと、自分のまわりのものごとにいつも「ちがうぞ!ちがうぞ!」「そうじゃない!ちがう!」という感じを抱いていました。
一体何が?と言われても、それを上手く説明することは出来なかったし、自分でもよく分かってはいませんでした。
しかし、この違和感を無視することだけは、どうしても出来ませんでした。
今思うとこの違和感が、私のこれまでの人生の過ごし方に支配的であったという気がします。
そして近頃はそれに加えて、何か「悲しい・・・」という感じが自分を浸していることにも気がついています。
何が?と言われても、これも難しいです。
自分に、満たされないものや失ったものがあるから・・・というわけではありません。
そりゃあ少しくらいは不満もありますが、それ以上に恵まれていると思うこともありますから、そんなことではないのです。
何かに共感していると言った方が当っています。
それは、この地球のお母さんの痛みだったり、この世界の片隅でひどい目に遭っている人たちのことだったり、この地球のどこかで絶滅に追いやられようとしている鳥やケモノや虫たちのことだったり、伐り倒され焼き払われる森の樹木の叫び声や大地の嘆きだったり・・・。

この怒涛のような、世界中を巻き込んで流れていく潮流に乗って一緒に流れて行くことがどうしても出来ずに、どこかにたとえ一筋でも別な流れがあるに違いないと、岸辺伝いにつっかえ引っ掛かりながら流れている、私もやはり一滴の水には違いないけれど、まるで油のように混ざり合えない・・・、それが違和感の正体なのかなと今思います。
そして、その大きな流れの行く末は、私には、破滅しか見えません。
かく言う私も含めて、どうして人類だけが、美しいこの地球と調和することが出来ないのか・・・、それが悲しみの正体のような気がします。

もしこの先の世界に厳しい試練が待っているとしたら、その中で自分はどのように振舞うのか、今日はそんなことを考えて一日が過ぎました。
今そんな世界だからこそ、氷に閉じ込められながらも春には芽吹く力をたくわえて眠る冬芽のように、確信に満ちて生きていたいと思っています。