日別アーカイブ: 2007年7月30日

戦争を語ってくれた人たち その1

毎年この時期になると、先の戦争のこと、広島と長崎に投下された原子爆弾のこと、そして平和の大切さについていろいろと語られます。
今五十台半ばを生きている私の世代は、親たちが戦争体験者で、父たちは兵士として実際に銃を手にした人たちでありました。
私たちは子どもの頃からずっと、何かにつけあの戦争のことを語り聞かされたものです。
だから、直接戦争体験はなくても、おぼろげながら戦争の悲惨さを感じ取ることが出来たと思っています。
しかしもうこの先、私たちがいなくなれば、戦争体験者はおろか、直接話を聞いた者もいないということになりますね。
この際、私の聞いた話しを、少しでも多くの方の記憶に留めることが出来ればと思い、この場に公開申し上げることにしました。
少し長文になるかと思いますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
この話しを語ってくれた方、すでに故人となられましたが、仮にKさんとしておきます。
私がKさんから話しを聞いたのは、もう20年近く前のことになります。
Kさんは、あの第二次世界大戦当時、若き将校の一人として、中国の南京で任務に着いていたそうです。
残念ながら、具体的に階級が何だったか、聞いたような気もしますが思い出せません。
南京は、当時あの大虐殺事件があったとされている場所です。
戦争も末期の頃、Kさんは捕虜の中国兵を毎日15人(50人だったかも知れませんが、記憶が確かではありません。)ずつ処刑するよう命令を受けたそうです。
Kさんは良心の呵責を感じつつも、部下に処刑を実行させる日々が続いたそうです。
話しは前後しますが、Kさんが着任した時まずやったことは、現地の女性と結婚することだったそうです。
現地の女性を妻に迎えることにより、その両親や兄弟たちは自分の家族となり、多くの血族たちと親戚になりますから、それは身の安全を保証する上で一番確かな方法だったそうです。
それに中国人女性は貞節で、一度妻となれば我が身を呈して夫の生命を守ると言われたそうです。
そのようなわけで、護身のために現地人妻を持つというのが、将校たちの常套手段であったそうです。
(※このことが何を意味しているか、あえてこの場では申し上げません。)
一方、Kさんは任務の合間に私財を投じて現地の子ども達のために小さな学校を開き、日本語を教えたり(これが大義名分になったのだと思います。)算数や理科なども教えて、現地の人たちに感謝されることもあったそうです。
さて、日本の敗戦で戦争が終結した時、Kさんは捕虜となり数日のうちの処刑が決まっていました。
そこへ、現地の人たちから助命嘆願が出され、それが認められて一命を得、無事帰国することが出来たということです。
それから四十年近い歳月を経て、日中国交正常化が成って間もなくの頃、Kさんは中国旅行ツアーに参加してあちこち回ったそうです。
中国語をしゃべれるKさんは、行く先々で「中国語がお上手ですね。どこで覚えたのですか?」と質問されました。
最初にその質問に合った時、Kさんは何も考えず正直に、自分が先の戦争で南京にいたことを話したそうです。
そのとたん、その場の雰囲気が凍り付き、周りにいた人々が厳しい視線をKさんに向けているのに気づき、頭の中が真っ白になってしまったそうです。
それからは、同じ質問には「日中の国交が回復したので、ぜひとも中国を訪れたいと思い、そのために一生懸命中国語を勉強したのです。」と言うことにしたら、どこでも拍手喝采を浴びたそうです。
今でも思いますが、Kさんが作り話をしたとはとても考えられません。
細かいところに少々の記憶違いがあったとしても、大方そのとおりだったに違いありません。
そしてまた何でそんな話しを、私に聞かせたのでしょうね。
自分一人の胸にしまっておくには重すぎる記憶だったのでしょうか。
それとも、決してあの人たちは忘れてはいない、我々は過去に対して軽率であってはならないと言いたかったのでしょうか。
戦争の残す傷は、どこまでも深く人々の記憶に残るものだと思います。
そしてその業は、世代を超えて乗り移り、ますます重い課題となり続けるもののようです。