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希望はその先に・・・


2010年1月5日 降雪の朝


新しい年が始まって、それも21世紀が始まって10年目の今年。
素直に未来への希望を語りたいと思いますが、一方でそうは行かない何かが私の中に引っかかっています。


今の私たちの社会そして世界も、このままでは行き詰ってしまうと誰もが薄々感じながら、その流れを止めることも変えることも出来ず突き進んで行くばかりの状況。


ますます高性能になって行くコンピューター。
ますます高速大量に伝搬される情報、広範囲に流通する物資。
便利になって行く生活の中で、私たちは手も足も体も動かさずに済むようになり、頭さえ使わなくて良くなってしまいそうです。


気がつけばいつの間にか、身の回りは道具と機械に囲まれ、一方でゴミの山・・・。


そんなことを思っていた時、会津学を主宰している菅家博昭さんのブログ「記憶の森を歩く」2009年12月30日の記事「事実を正視する必要性」が、目に留まりました。<参照>


私たちの祖父母、親たちから私たちそして子どもたちへ、この3~4世代の間に確実に失われてしまったか、あるいは今や失われようとしている沢山のものごと。
そして何より、この大自然の中で生かされているという感じ方と身のおき方、つまり感性・・・。


暮らしの中に、この社会の中に、また人々の心の中にあったもろもろの生活の術、習慣、仕組み、そして感性、そうしたものは必要が無くなった途端、いかにもあっけなくこの世から消えて行ってしまうもののようです。


技術と技能・・・。

まだしも技術は、情報化して後世に残すことが可能ですが、技能は、人の手や足や体にそして頭の中に獲得されるものであって、それは人から人へ直接でなくては伝えることは出来ません。
使い続けること、それを必要とする生活や社会の仕組みが息づいていなければ、やがて廃れてしまうことは避け難いのです。


そして私たちの祖父母や親の世代にはあったと思われる、ある種の感性。
私たちの子どもの世代には、もはやそのかけらもなくなってしまったかも知れません。
そして私たちは、その途上にあって傍で見ていた者として、その気があれば立ち戻ることも可能な、あるいは語り伝えることの出来る、大変微妙な立場だと思っています。


どの道私たちの社会は、否世界は、この先一山越さないことには先には行けないように見えます。
なかなか厳しい、高い山を越えなくてはならないのだと思います。
その時に頼りになるのは、先人達が持っていた感性だけだと、私はそう思います。


厳しい現実から目を逸らして、見せかけの希望を語ってみたところで何の足しにもなりはしません。
本当の希望があるとしたら、厳しい現実のその先です。


自分たちが何を見ているか、どこを見ているか、やがてそれが問われる時が来るに違いありません。



さてここまで、この先にどのような希望が持てるという話は、出て来ませんでしたね。
最後に一つ、ネット上で見つけて以来度々良い刺激をいただいている、素敵なパン屋さんの話をして締めくくりたいと思います。


そのパン屋さんとは、広島市で薪釜でパンを焼いている「ブーランジェリー・ドリアン」というお店です。
お店のことは、私があれこれ申し上げるよりもホームページをご覧いただきたいと思います。
<参照>


経営者の田村陽至さんという方は、まだまだお若い方ですが、還暦を目前に控えた私でも、うらやましいと言うか尊敬に値する域に辿り着いたような方です。
その田村さんが、地元紙の「中国新聞」に連載執筆された記事の中で、今日の私の記事の締めくくりにピッタリの記事がありましたので、それをご紹介して終わりにしたいと思います。


平成19年9月13日「中国新聞」くらしのページ、「私の口福」田村陽至・12 より抜粋  元記事のページは <こちら>

曰く
・・・僕の大好きなフランスのパン屋「ポワラーヌ」は、何百年と変わらぬ薪でパンを焼く製法で、世界で一番のパン屋になった。結局、おいしかったのだ。
店主はそれを「レトロ・イノベーション」と言った。
古いやり方で革新するという意味だ。
僕はこの考え方が好きだ。
例えば、みんなが百年前の暮らしをすれば、たいがいの環境問題は解決する。
けれど、人間戻れない。
だからレトロ・イノベーションなのだ。
古い方法で、戻るのでなく、前へ進んでしまえばいい。
実際にできる。
食べ物も、道具も、生活も、昔ながらのやり方の方が質が上がる。
人の手間ひまが、それだけかかっていたからだ。
技術を人の手に取り戻し、古い方法で新しい時代をつくる。
それを実践して、証明してみせるために、僕は今日も明日も汗まみれでパンを焼いてます。