月別アーカイブ: 2007年8月

能率、上がりません。

また今日も最高気温を更新したらしいですね。
会津では、昼頃から雲が出て来て、昨日に比べれば外はずい分過ごしやすかったと思いますが、逆に食工房の作業場は妙に蒸し暑くなり、自分でもはっきり分かるほど頭が回らなくなりました。
暑さには慣れて来ていたはずですが、今日は仕事が捗らないうちに、時間ばかりがどんどん過ぎて行きました。
結局、いつもより少なかったはずの仕事を、いつもと同じ時間かかって終わりました。
思い出してみると、8月に入ってからずっと暑かったのですが、自分ではそんなに耐え切れないという感じはなかったのです。
でも、在庫を見て分かりました。
ちっとも能率が上がっていなかったんですね。
クッキー類が、またしても全部品切れ状態になってしまいました。
この暑さの中をせっかくご来店いただいた方には、選んでいただける品物が限られてしまい、大変申し訳ありませんでした。
この後少し涼しくなってくれるようなら、どんどんペースを上げて在庫の回復が図れると思います。
話が脇にそれますが、夏から秋へ、この季節の変わり目の体調は一年の健康の要だそうです。
この時期を元気で迎えるためには、夏の過ごし方が大切なんですね。
私は、いつものことながら、ただでさえ暑い夏をなお一層暑い場所で過ごしています。
皆さんは、どのように過ごされていますか?

終戦記念日

             玉蜀黍

        さわさわと黍の葉が鳴る

        こいつはロッキーバンタムだが

        風に鳴る葉ずれの音は

        間違いなく日本の秋の音だ

        若い時大陸で希望に燃えた日

        やはりこの音をきいた



        あれから戦争があった

        聖戦とゆう全く腹の減る戦だった

        空腹に耐えかねて

        内地へゆく貨車から黍の実を盗んで

        飯盒で煮てみたが

        あれだけは喉を通らなかった



        敗戦とは言はず終戦ですべてが終わり

        引き揚げたふるさとで

        アメリカからもらった黍の粉の

        ホコリ臭い苦みのある味に

        やっぱり敗戦だったと自覚した



        つかの間に四十幾年がすぎ

        手の平ほどの山の畑で

        私は黍の葉ずれの音をきく

        さわさわと鳴るその音は

        今が一番に平和なときかもと

        思うほど切ない


              昭和61年10月


 


これは、今は亡き私の父が自費出版して残した詩歌集「玉蜀黍」の冒頭にある詩です。
今、この詩を読みながら聞かされた沢山の戦争の話を思い出していると、私は、いつの間にかそれが自分の実体験であったかのような錯覚に陥ります。
私の想像力が逞しいのでしょうか。
あるいは私のまわりに、戦争の記憶の生々しい人が、何人かいたからでしょうか。
すでに亡くなりましたが、私の伯父は輸送部隊で任務中
に地雷を踏み、トラックごと吹き飛ばされて、片足の脛から下がなく、義足を付けていました。
また中学校の教師の一人は、太ももに銃弾が入ったままで、片足を引きずるようにして歩いていました。
その傷口を見せてもらったこともありますし、授業中には、南方の島でアメリカ軍の戦車に追われて、ジャングルの中を逃げ回ったことや、爆撃で人も馬も吹き飛ばされ、骨肉が散らばる凄まじい光景だったことも、つぶさに聞かされたものです。
ある時は、機銃掃射のコツを解説に及んだこともありました。
私に戦争を語った何人かの人が一様に口を揃えたことは、新兵の時、最初は皆敵兵を前にしてもなかなか引き金を引けないものだと。
それが、仲間が敵弾に倒れるのを目の当たりにしたとたん、何かが弾けるような気がしたと言います。
そこから先は、いくらでも鬼になれたと・・・。
もう60年以上も前のことなのに、戦争体験者でもない私がこんなにも鮮烈にイメージ出来るのは、今この時代にも、世界のあちこちで戦争が続いているからだろうと思います。
パレスチナで、アフガニスタンで、そしてイラクで。
表向き、戦争を肯定する人はいないはずなのに、相変わらず世界中に紛争の火種が途絶えることがありません。
何故なんでしょう。
どこかに嘘があるに違いないのです。
それをどこまでも突き詰めて行かなくてはならないし、そのためにも戦争の記憶は絶やしてはならないと思っています。

              ※ 習慣 コーヒー通信 今週も休みます。

止めてください。

自動車を運転しながら携帯電話、止めていただきたいと思います。
しょっちゅう見かけます。
全く珍しくない光景です。
はっきり法律で禁止されているのに、誰も守る気などないように見受けられます。
そんな日本人のメンタリティーは、一体どうなっているのか、私には解せません。
確率論で言えば、事故が起きるのは少数かも知れません。
でももし、携帯電話しながら運転している車に、自分の家族や友人知人がぶつけられて、怪我したりひょっとして死んだりしたら、とてもじゃないけどやり切れません。
みんな自分のことしか考えてない・・・?いや、自分のことすら考えてないんじゃないですか。
ちょっと飛躍かも知れませんけど、今、日本の社会全体が思考停止に陥りつつある、そんな気がしてなりません。
もう一度お願いします。
運転者の皆さん、どうぞ運転中の携帯電話、止めてください。 

戦争を語ってくれた人たち・その3

今回は、私の母の話です。
母は88歳になりますが、今もまだ健在です。
これからまだ聞こうと思えば、話を聞くことが出来ますが、母は自分の半生を小説風に書き上げて出版していますので、その中から、また直接聞いたことなどを、私がまとめて文章にして見ます。

母は、戦争中は大方東京で暮らしており、かの東京大空襲の時も危うく命拾いして、今までを生き延びて来ました。
母の戦争話の要点は、国民が一丸となって戦っていると思わされていたあの戦争も、実は、不正が横行し不平等に満ち満ちた、自分たち自身の生存のための戦いの一面があったということです。
大方の人々が、乏しい食糧で飢えをしのいでいる間も、あるところには、砂糖、缶詰、小豆、サイダーなどが戸棚にギッシリと詰まっていたのを、実際に見たことがあるそうです。
あるところには何でもあるというのが事実だと、思い知ったそうです。
また、配給物資を多く受け取るために、帳簿をごまかして従業員の数を水増しする工場があったり、そうやって余計に受け取った物資が闇ルートに乗って、特定の人間たちの金儲けに貢献していることも、世の中をいっそう悪くしていると、内心許せない思いで過ごしていたそうです。
ある時はまた、勤めていた会社の若社長が、従業員の署名入り嘆願書を添えた書類一通で、重要産業の責任者という名目で召集解除されて帰って来たそうです。
絶対と思っていた赤紙(召集令状)でさえ左右出来るという事実に愕然としたと、私は何度も聞かされた覚えがあります。
そんな話をする時いつも、国民は情報を操作されて何も知らされず、盲目的に戦意高揚へと駆り立てられていたのだと、悔しそうに憤る母の姿は、子どもの正義感にも響くものがありました。
いつでも正義のためと言いつつ、戦争の陰には巨悪が手を回していて、全く被害の及ばないところで利権を貪っている、そういうものだと私も思います。

余談になりますが、かの東京大空襲の時、焼け野原のただ中に母の飯炊き釜一つだけが焼け残っており、その釜で、地下壕に隠しておいた米をプールの水で研いで飯を炊き、皆で食べたそうですが、その釜は蓋だけ新しく作り直して、その後もずっと我が家にあり使っていました。
一ヶ所少しへこんだその釜は、戦争を知らない私にも、何かを語っているという気がいつもしていました。
さすがに今は使っていないようですが、実家の物置の片隅にはまだその釜があるはずです。

 母の著作の紹介
「はるかなる旅路」 
地上から神秘世界へ -わが内なる人生の旅-
青木修子 著 文芸社 1200円+税
☆自費出版のため、書店にはありません。
私の方へご連絡いただければ、お分けいたします。
  ☆第47回高知県出版文化賞受賞

ホットな一日



今日は、「真夏のカレーパーティー」第2回、会場が我が家だったので、通常の食工房の作業は全部キャンセルして、イベント一色に・・・。
お昼までにはこちらの準備が整い、間もなく、本日のメインシェフのマイケルさんが、出来上がった料理を持って到着。
盛り付けをしている間にも、お客様が次々にご来場になり、さあ、熱々に予熱しておいたオーブンで、ナンを焼き始めます。
早速皆さんに召し上がっていただきながら、横で七輪に炭火を起こしチャパティー焼きの実演もやりました。
本日のテーマはインドの精進料理ということで、肉魚とにんにく玉ねぎを使わないメニューでした。
ベイガンバルタ(茄子を使ったスパイシーな煮物と言う感じ)・ライタ(ヨーグルトにドライフルーツ、クルミ、人参などの具を入れ、酢とスパイスで味付け)・タルカリ(ズッキーニ、アーモンドの荒引粉、スパイスと塩で調味)・アーチャル(チャツネ)・バターナッツとパプリカのバジ・きゅうりとクミンシード、以上の6品が仕切りの付いた一枚の皿に入っています。
私が造ったダルスープだけは、勘違いで玉ねぎのベースを使ってしまいました。
これらをナンとチャパティーで食べていただきました。
またお水の代わりに、「フェンネルウォーター」というスパイシーな飲み物が出され、とても好評でした。
デザートには、パイナップルとバナナが、またひよこ豆をシナモン味で甘く煮たものとバニラ風味のミルクゼリーも出されました。
盛り沢山な内容で、皆さんお腹がいっぱいになったんじゃないかと思いますが、私の方は忙しくて一口も食べられませんでした。




おまけに暑くて、あと片付けが終わった頃、残っていたフルーツを先ずいただいて一息つきました。
料理もけっこう沢山用意していたので残っており、夕食にゆっくりといただきました。
かくしてホットな一日は終了。
さてさて、この次の日曜日も、
 「真夏のカレーパーティー」第3回ですよ!
今度は、豊原料理人が腕を揮います。
メニューは、タイカレー(魚と夏野菜、ココナツミルクを使うそうです。)とさわやか山都カレー(鶏肉と野菜を使うそうです。)、それに食工房からは、なすと挽き肉のカレーです。
飲み物は、南国高知から「ゆずドリンク」を取り寄せました。
まだ定員まで少々余裕があります。
どうぞ皆さん、奮ってご参加を!
お申し込みをお待ちしております。

続2・画面と紙面

分かっていても、実際にやって見ていつもがっかりさせられること、その一つがwebコンテンツのプリントアウトです。
私のブログを、インターネットに縁のない年老いた母にも読んでもらいたいと思い、何度か印刷して見るのですが、どうやっても満足の行くものが出来ません。
「そんなこと当たり前だよ!」と言われてしまうのでしょうか・・・?
まあ、分からないでもありません。
webコンテンツは動的なものですから、紙に印刷されて動きを止められてしまうと、意味の無くなる情報が沢山盛り込まれているのですね。
それからもう一つ、画面の表示は自由自在に設定を変えられるので、見ている画面をそのまま印刷しても良い印刷結果が得られるとは限りません。
たまに、印刷結果を重視して作り込まれたページにお目にかかることもありますし、PDFファイルという手もあるのですが、それでもwebコンテンツは、画面で見るだけのものと思っていた方が良さそうです。
やはり、印刷物には印刷物としての得難い特質や存在価値があるわけです。
ま、それは分かっているつもりですが、年老いた母に今さらインターネットを覚えてもらうことはまず不可能ですし、もう少し何とかならないものかと頭を悩ましています。
例えば、ブログの本文や画像、寄せられたコメントなどを、不要なリンク表示などは省いて、代わりにイラストや囲み枠などを使いながら、いい感じにレイアウト編集すれば、雰囲気の伝わる印刷物になりそうですね。
でもそれって、ものすごく手間暇がかかりますね。
毎日毎日更新し続けているブログを、そんなことが出来るわけもありませんので、今ちょっと投げやりになってしまっています。

残暑お見舞い申し上げます。



暑い日が続いています。
全国的な暑さのようですね。
暑いのも寒いのも、苦痛と言えば苦痛ですが、その季節にふさわしい暑さや寒さを味わうことは、健康上は有意義なことであるらしいですね。
おかげさまで、今までのところは暑さにも寒さにも参ってしまったことはありません。
皆さまも、どうぞ夏の暑さが与えてくれるエネルギーを上手に取り込んで、お元気に過ごしていただきたいと思います。
さて、食工房の作業場の温度も、いよいよ猛烈になって来ました。
氷をしゃぶりながらやっていても、全然物足りないくらい暑いです。
いっそ頭から水をかぶりたいくらいですが、それでは作業が出来ませんので仕方ありません。
それより問題なのは、作業後にいつまでもオーブンの温度が下がらないので、閉店後も戸締りが出来ないことです。
扉を開けて放熱しただけでは、もうどうにもなりませんので、今日はとうとう扇風機を出して、オーブンの中に向けて風を送り込んで、この時間もまだ強制空冷しています。
その間ずっと、交代で開け放しにしてある店に出て番をしています。
今夜は、星空がきれいなので、店の前の外でお空眺めも楽しめそうです。
さて、これを書き終えたら交代番です。

 お知らせ
あさっては、第二回目の「真夏のカレーパーティー」です。
ほぼ定員いっぱいとなりましたが、あと1、2名の余裕があります。参加ご希望の方は、お早めにご連絡ください。

食パンの思い出



角食パンを仕込んでいる時、毎回条件反射のように思い出していることがあります。
それは、私が子どもの頃、よく父が大きな食パンの塊を買って来ていたことです。
私が育ったのは四国の山奥の小さな村で、父は製材所に勤めていました。
月に二回、営業のため木材市場のある、香川県の多度津という町へ出張していましたが、いつも大きな三斤の塊の四角い食パンを抱えて家に帰って来ました。
思い出す限り、我が家はどうもパン好きの家庭だったらしく、この三斤食パンを楽しみに待っていたことを覚えています。
当時の父の収入などを考えると、この食パンはかなり奮発して買っていたはずです。
また、パンにつけるバターやジャムなども、大抵いつも家にありましたが、これは母方の親戚が食品卸販売会社に勤務していたおかげだったようです。
夜遅く父が帰宅して、その食パンを目にすると、夕食が終わった後でも、とにかく一切れ食べたくなったものです。
しかしそれも、勤めていた製材所の廃業による父の失業で、途絶えてしまいました。
やがて村の中にもスーパーマーケットが進出し、食パンはいつでも買えるようになった代わりに、何の感激もなく美味しくもなくなってしまいました。
そして今度は、息子の私が今頃になってパン屋を始めたというわけです。
時々思うのですが、当時のそのパン屋さんは、毎月二回決まった日に、三斤食パンを一本買いに来るありがたい客を、きっと覚えていたことでしょう。
食パンがきれいに四角く焼けた時はいつも、今は亡き父を想いながら、「さあさあおいしいのが焼けたよ!買いに来てよ。」と呟く私です。

戦争を語ってくれた人たち その2

                 ※習慣コーヒー通信は、お休みします。

今回は、今は亡き私の父の話です。
私が小さい子どもの頃と言えば、戦争が終わってやっと十年を過ぎた頃で、まだまだ人々の心にも、周りの風景にも、戦争の記憶が色濃く残っていました。
正月に、大人たちが集まって酒が回ると、必ずと言って良いくらい軍歌を歌い、戦争の時の話をしていました。
話の中身は、子どもの私にはよく分かりませんでしたが、ある時、どうやらそれは中国人たちのところへ物品を徴用しに行った時の話のようでした。
中国人たちが戸惑う様子を、面白おかしく話していました。
ゲラゲラと大きな笑い声も聞こえていました。
父は、そんな話にただ愛想笑いを返しながら、黙って聞き役に回っていました。

父は、戦争前18歳の時、単身旧満州に渡り満鉄(満州鉄道)に入社しました。
鉄道学校で研修の後機関士になり、途中現地で応召入隊し、朝鮮半島で警備の任務に着いたこともありましたが、その後は復員するまでずっと鉄道員でした。
その父の戦争の話は、ほとんど満鉄の汽車の話ばかりでした。
今も、古い写真帖には、鉄道マニアが喜びそうな大型の蒸気機関車と一緒に若き日の父が写った写真が、何枚か残っています。

そんな父に、一度だけ恐ろしい話を聞いたことがあります。
何かの話のはすずみで、昔は侍が人の首を斬ったものだという話になり、私が、首を斬られたら人間はどんな風になるのかと尋ねたところ、父はそういう写真を見たことがあると言いました。
首を切られて血が噴き出していたり、胴体を切断されて背骨がむき出しになっている写真だったそうです。
終戦の頃、父は、夥しい数のそういう写真を、コンクリートで固めて処分する作業をさせられたそうです。
その時は、怖い話だと思ってそれきりでしたが、後年私が大人になって父も亡くなってからのことですが、ひょっとしてあれは、かの悪名高き731部隊の証拠隠滅に借り出されたということではなかったかと思い当たりました。
その戦争が終わってもしばらくの間、父は、捕虜となってシベリアに送られて行く、友軍の元兵士たちの輸送に当らねばなりませんでした。
そしてその命令を解かれ、やっと日本に帰って来られることになった時のことが、父の遺品の中に見つけた小文の中に語られていましたので、紹介させていただきます。

  「夏の想い出」
昭和二十一年七月、私達は祖国へ引き揚げる為、中国コロ島の港に集結していた。
乗船の日が来て、私は引率していた三百名近い、旧満鉄青年隊員と一緒に、真夏の太陽が容赦なく照りつける岸壁の広場で、中国軍から所持品の検査を受けていた。
検査が終わると青年将校が、私のところへ来て日本語で、「お尋ねしたい事があるので、集合させて欲しい。暑いので木陰のあるところがよいでしょう。」と言う。
言われたとおり木陰に集まると、腰を下ろして楽な姿勢でとすすめ、「今、貴男方の持ち物を検査しましたが、理解に苦しむことがある。それは、貴男方の荷物の中には一冊の本も見当たらない事です。どうしてですか。」と尋ねた。
皆黙っていると、私に、「貴男は、本を持つことを禁じたのですか。」と言う。
「食料品や日用品が、より大切と思いましたので。」と答えると、「それは解ります。しかし、煙草だけはみんな沢山持っておられるようだが。」と言われて、返す言葉はなかった。

「乗船までは時間があります。少しお話しましょう。貴男方は、戦争に敗けたからと言って、何もかも間違っていたと投げ出してしまうべきではない。我々が敵とするのは、日本の軍国主義であり、貴男方人民を憎む理由はない。我々青年は、互いに手をたずさえてゆくべきであり、朋友である。日本へ帰ったら、持つべきものと棄て去るべきものの選択を誤らないよう、新しい日本を再建してください。いつの日か、又会いましょう。」
以上のような要旨であったが、心の底から参った、参りましたと、魂に灼きついた。

あの時から三十年の歳月は、日本を世界の経済大国に成長させ、中国も世界列強の一つに飛躍した。
中国孤児が、日本に帰りまた訪れ養父母を語る時、あの日彼が言った、貴男方人民を憎む理由はないと言った言葉の真実を尊く想う。
日中互いに手をたずさえ、友好平和に邁進しつつあるかにみえる最近、「軍国主義は中国の敵」と、大陸から冷たいコールが、今年の夏を例年にない低温にしている大陸高気圧の張り出しにも似て、日本に届いていることを残念に思う。
我々は、彼の言った、棄て去るべきものの重大さを、中国の人の立場から、もっと深くかみしめるべきではないだろうか。
(昭和57年8月12日、NHK松山放送局・午後のロータリーにて放送さる。)

サルミアッキ



大好きなフィンランドの、ひょっとすると大嫌いなお菓子になるかも知れなかった、「サルミアッキ」をとうとう口に入れました。
「高野通信10号」で紹介した、世界一不味い飴「サルミアッキ」・・・。
<参照> ※ダウンロードに少し時間がかかります。
奇食ハンターを自称する方のブログに、折り紙つきで紹介されています。
<参照>
でも、これがフィンランドでは、国民的に愛されているお菓子なのだそうです。
さて、これを口に入れることになった経緯は、高野通信の記事を読んだ食工房のファンの方が、近々北欧に旅行に行くので、その時には是非ともサルミアッキを体験したいと仰って、そしてお出かけになりました。
つい先日、お帰りになられたようで、送られて来た小箱には、可愛らしいムーミンやトントの小物とそしてサルミアッキが入っていました。
「おお!とうとう来たか。」と覚悟を決めて、先ずは写真を撮り、そして口に・・・。
ん、意外や意外、けっこうイケるじゃん、とその後に口の中に広がる妙な香りは・・・。
さあさあ皆さん!サルミアッキを体験したい方は食工房へ。
先着30名様のお口に、世界一不味い飴「サルミアッキ」を入れて差し上げます。
今日は、これが届いたおかげで他の話題は皆どこかへ吹っ飛んでしまった我が家でした。