月別アーカイブ: 2009年8月

ご来店、売り切れ御礼ならびにお詫び


毎度ご来店ありがとうございます。


本日も、張り切ってスコーン焼きに臨みました。
製造の方は万全でしたが、お電話で頂いた予約注文で大方売り切れ状態。
お店の棚に並べる分は、わずかに1個2個と言うことになってしまいました。
昨日のパンも、少なめだったので大方売り切れ。
商品棚はガラガラ。
ご来店いただいた方の中には、明日もう一度来るからと、そのままお帰りになった方もあり、大変申し訳ないことでした。

明日は、またパン焼きです。
気合いを入れて、少しでも早めに焼き上がるようがんばります。


まだまだ人を雇えない非力なパン屋です。
何かと間に合わなくて、ご迷惑をかけてしまっております。
懲りずに長い目で見守っていただければ幸いです。

たまにはこんなことも・・・

今日は夏休み明けというわけで、張り切ってパン焼きに臨みましたが、早々からトラブル発生です。
実は、昨日からすでに確定していたことなのですが、沼ノ平産の小麦を使うパン3種類の製造が出来ませんでした。
と言うのは、自家製粉保管してあった全粒粉が、休みの間にカビ臭くなっていたのです。

前にもご説明していますが、小麦粉は挽き立てが必ずしも最適ではないので、ある程度の量を前もって製粉しておくようにしています。<参照記事>
だいたい一週間程度おいてから使い始めますので、一回挽いた分を使い終わる頃には、2~3週間経過することになります。

いつもそれでトラブルは無かったのですが、今年は何しろあのお天気です。
いつまでも雨が続いて湿気は最高レベル、夏休みをいただいている間にカビが回ったのでしょうか、昨日計量の折、微妙に気になる臭いがしたため使用中止を決定。
さりとて急遽製粉しても使えませんので、本日の製造をあきらめたというわけです。

挽かないで保管してある小麦の方は、さすが種子ですから、生命力に守られて万全でした。
今日、早速製粉機にかけて全粒粉を製粉しました。
明後日のパン焼きにはちょっと苦しいところですが、少し無理をしても使ってみようかと思っているところです。

ちなみに、今回まだ昨年産のものを使っています。
今年産は、まだこれからです。


  おしらせ


8/30(日)午後2時より、「カフェクラブの集い」をやります。

今回は、コーヒー生豆のハンドピック(手選別作業)体験です。

映画「おいしいコーヒーの真実」のDVD上映も予定しています。

多くの皆さまのご参加をお待ちしています。


参加費 無料



「おいしいコーヒーの真実」より、一場面


参加ご希望の方は、当日朝までにお申し込みください。

? 0241-38-3102 食工房

おいしいコーヒーのいれ方、再び

おいしいコーヒーのいれ方(淹れ方)と題する情報は、それこそ数えきれないほど沢山流布されています。
どれもそれなりに説得力を持って響いて来るのですが、果たしておいしいコーヒーの真実はどこに・・・。


さて、食工房でもこれまで度々、コーヒーの抽出についていろいろとご説明申し上げて来ましたが<参照>、今回は最も一般的に使われているペーパーフィルターについて、科学的にもう一歩踏み込んで解説してみたいと思います。


ご存じのようにペーパーフィルターは、ドリッパーと呼ばれる器具にセットして使います。
抽出量(人数分)に応じて大きさと容量が決まっており、フィルターとドリッパーは、適合するものが必ずセットになっています。



カリタ 103 4~6人用 ドリッパー


写真は、広く出回っているカリタ式のドリッパーです。
安価で一般的なプラスチック製のもの、またプラスチックに不安を感じる方には、ちょっと値が張りますが陶製のものもあります。




この形状や出っ張りの付け具合には、沢山のノウハウが詰まっているはず。


ご覧になって分かるとおり、内側には筋状の出っ張りが付けられています。
この筋状の出っ張りは、実はとても重要な役割を果たしています。



この次、実際にコーヒーを抽出している時の様子を、動画に撮りたいと思っています。


写真は、ドリッパーに適合するペーパーフィルターをセットして、水で濡らしたところです。
水に濡れたペーパーフィルターは、ドリッパーの壁面にくっつこうとしますが、筋状の出っ張りがあるため壁面から離れて隙間が出来ています。
くっついているように見える部分にも、実は毛細管現象で水がたまっています。
抽出時に、コーヒー粉と湯で満たされた状態でも、この隙間は幾分狭くなるものの保持されています。
ここが非常に重要なポイントです。
もし、この筋状の出っ張りがなく、のっぺりとした平面だったらどうでしょうか。
ペーパーフィルターは、ペッタリと壁面にくっついてしまいます。
フィルターを通り抜けたコーヒー液は、壁に当たって行き場がありません。
穴の開いている底の部分のみが出口ですから、そちらに向かって圧力が集中し、非常に抜けが悪い状態になります。


ドリッパーは、単にペーパーフィルターを保持するだけが役割なのではありません。


筋状の出っ張りによって生じた隙間、つまり細い管の中では、重力の法則に従って落下する力と、毛細管現象によって留まろうとする力のバランスによって、抽出速度が速くなり過ぎないように調節されるのです。
当然、ペーパーフィルターのコシの強さや繊維の目の粗さも、デリケートに影響します。
そのメーカーの専用のペーパーを使うよう推奨するのにも、一理あるというわけです。
この筋状の出っ張りの高さと間隔は、開発者のノウハウの結晶だろうと想像します。



ネルドリップについても、触れないわけには行かなくなりました。


ところで、ネル(布)フィルターの場合だと、フィルターはリングで上端が固定されているだけで、空中に吊り下げられた状態です。
フィルターを通り抜けたコーヒー液は、自由空間に解放されることになりますから、抽出速度は主にフィルター自体の通過抵抗によって決まります。


紙も布も同じ一重のろ過装置だと思っていましたが、動作のメカニズムはかなり違うものだということが分かります。


さて、このような基本的物理的メカニズムを理解しておけば、あとはそれをどう活かすか、それは自分次第ということになりますね。


また機会を改めてこの次は、ろ過のメカニズムに迫ってみたいと思います。

パソコン不健康説

パソコン(以下PCと略します。)の前に座っていること、どうやらこれが一番健康に悪いらしいと、このところの私の実感です。
目は画面を見つめて首が固定したまま、動かすのは指先だけで運動量は極少、呼吸も浅くなります。
クリックする度に次々と決定と判断を迫られるので、神経だけは結構緊張しています。
一日のうちのほんの一瞬だけならまだしも、一時間とか二時間あるいは数時間にも及ぶと、明らかに体だけでなく精神的にもストレスがかかって来るのが分かります。
真剣に対策を講じていないと、健康維持は難しいと感じます。


ところが、仕事上の必要でPCに接する時間は、導入以来増える一方です。
それで、製品ラベルのプリントなどPCがない時にはどうやっていたんだろうと思い出して見ると、コンビニでカラーコピーして来たものを、カッターナイフで切り離して一枚ずつ糊を付けて貼っていたのですね。
製造数も少なかったのでこんなことが出来ていたのですが、これはこれで大変な時間を取られていました。
PCとカラープリンターと糊付きシール用紙になって、ものすごく小回りが利くし時間の節約にもなっているのです。

ではそうやって浮いた時間を、例えば健康維持のために使えばいいところですが、それなら経理もPCで、納品書もPCでということになって来るのですね。
それはそれで合理的なので、PCの守備範囲が広がることになりました。
ちょっと考えると、一層時間の節約になって余裕が出そうなものですが、そうはならないのですね。
何と言ったら良いのか、PCは次々と仕事を増やしてくれるのです。
もちろんそこには、関わる私の意欲と言うか必要に迫られてそうなる部分もあるわけですが、ホームページの開設、ブログの投稿、Eメールでのご注文やお問い合わせへの対応などなど、もはやPC無くして仕事が成り立たない状況です。


全くここまで来て不健康説を言っても始まりませんが、これはこれで深刻に受け止めなくてはなりません。
心身の健康あってこその仕事であり人生なのですから、危機感を感じながら放置するのは賢明ではありませんね。
稼業の性質上、私の性格上、またいろいろな経緯上、沢山の要素が絡んで出て来た結果ですから、たちどころに妙案を得て解決とは行かないでしょうが、それでも少しずつ工夫して行きたいと思っています。


ところで話しが飛躍しますが、今のこの社会に蔓延しているストレスと閉塞感。
PCと無関係ではないと感じる私ですが、こんな推測を皆さまはどう思われるでしょうか。
いつかそのあたりのことについても、もっと深く触れてみたいと思っています。


 



巨大な都市にも例えられるPC内部CPU周辺部分。
流れているのは、血ではなく電気です。
もちろん、人間の脳にも電気は流れているのですが。

お盆過ぎれば


川に下りて行く道の途中の田んぼ、穂が出揃って少し垂れて来ています。


ここ東北では、お盆を過ぎれば暑さも去り、一段と秋の気配が漂うようになります。
今年は梅雨の様子が全く異常で、お盆が明けてからカラっと晴れたものの、季節はもはや秋です。
夕方日が暮れて行く速さと、空気がひんやりして来る感じがそれを物語っています。

畑では、草の勢いが少し弱まり、実を付ける方にエネルギーが回り始めているのが分かります。
田んぼの稲も、穂が垂れて来ました。
今日は、秋野菜を植えるために、収穫の終わったジャガイモとトウモロコシの跡地を片づけました。
ジャガイモの跡地は、きれいに耕すところまでやって、トウモロコシは残った茎を挽き抜いて片づけるのにまだまだかかりそう。

日中はさすがに暑いので、夕方から2時間くらい作業しています。
ちょうど明日には終わりそうです。
そしてそのついでに、カボチャの収穫も少しずつ。
熟れたのから順に、もう15個くらいは取りました。


毎日こうやって汗をかくのが、何にも増して健康法になっていることは、体の実感でよく分かります。
畑は、私にとっては、一石二鳥どころではない恵みです。


さて、明日もう一日休ませてもらって、明後日からはガーンとテンションを上げなくてはなりません。

やっと休みらしく・・・

今年は、長めの夏期休業をいただいております。
それも残すところ3日。
ただし最終日は仕込がありますので、店の営業が休みと言うだけで、実質仕事が再開になります。

ところで、毎週二日の定休日をいただいておりますが、このうちの一日は仕込のために仕事をしていますので、お休みは一日だけです。
しかも、用足しに費やすことが多く、実際のところ休みのような休みでないような、一日になってしまうことがほとんどです。
そこは自営業の宿命とある程度は納得していますが、どうしてもそれでは済まない何かが溜まって行くのですね。
そこで年に二度か三度、本当の意味の休息をいただくことになります。

今回は、前半は子どもや孫たちの来訪でうれしく楽しく過ごし、後半の昨日そして今日になってやっと、自分を取り戻すための時間が取れたという感じがしました。
私の場合、休息の質は仕事の質に直結していますので、おろそかには出来ないのです。

気合いを入れて休むというのも変な言い方ですが、一年のうちに何日かあるいはほんの一瞬でも、自分の中でバランスを取るための絶対的休息(私にとってのということですが)がないままに過ぎると、やがて何もかも放り出して人生そのものを変えてしまう大挙に出ることになるのが、これまでの経験で分かっているのです。

そうやって今までに、せっかくやりかけていいところまで行ったのに不意にしてしまったことが、何度あったろうといい加減懲りた私です。
思い返せば、捨てては拾い、拾っては捨てして来たあれやこれや。
これから、ぜんぶまとめてオーブンでおいしいパンに焼き上げましょう。

腹も膨らめば、心も膨らむパンを・・・。



※相変わらず、サーバーが復旧していません。閲覧し難い状況があると思います。アクセス数に影響しているかも。

草木塔


草木塔 


熱塩小学校南東側角にあります。


 



喜多方市に合併になる前に設置されたものですね。


草木の霊を慰めるために立てられたという草木塔。
牛馬の供養塔なら、全国の至るところにそう珍しくもないと思いますが、草木塔は全国でも山形県の米沢市周辺に多数見られる他は、福島県では喜多方市熱塩地区に一基のみとされている、大変珍しいものです。
このことを喜多方市の職員の方から教えていただき、いつか訪ねたいと思っていたのですが、今日やっと念願かなって連れ合いと二人で出かけて来ました。


話しは前後しますが、この草木塔に辿りつく道中、山都町から熱塩に向かう山道を通って行きました。
その途中、人家もなく一層山深いあたりで、とてもショッキングな光景が目に飛び込んで来ました。
それは、ここ数年来あちらこちらの山々でも見かけるようになった樹木の立ち枯れ現象なのですが、今日のは、広葉樹林と見られる一角の30%以上と思える木々が、赤茶色に立ち枯れた姿を晒していました。
つい先日も、別な場所で立ち枯れが目立つのが気になったばかり。
山に樹木が育たなくなったら、その時は人の世も滅びる時だと、以前にも申し上げた覚えがありますが<参照>、今日は草木塔を見る前にこの風景に遭遇して、その意味を考えないわけには行かなくなりました。


その昔、斧と手鋸で木を伐っていた頃、まだしも人は樹木と気心を通わせることが出来たかも知れません。
それでもこうして供養塔を立てるという文化は、よほど珍しいものだったのでしょうか。
何故、この名の塔が全国でも米沢市周辺のみに多くあるのか、そしてまた何故福島県内唯一の草木塔がここにあるのか・・・。


それにしても草木塔を立てるその心は、今の時代に最も欠けてしまっている精神ではないでしょうか。

蛇口をひねれば水が出るのは、即ち山に木が育っているからだというその繋がりを、水が流れる度に思い出せるほどに実感出来るなら、私たちの文明社会の在り方はもっとずっと違ったものになっていたはずだと思います。
山暮らしをしていた時、裏山から流れ出す沢水に頼って暮らしていた私たちは、それをいつも感じていました。


自然に対し、感謝する心と果たすべき役割、今さらながらにそれが大切だと思い出した、今日の草木塔参りでした。


 


そして終戦の日の今日。
先日の忠魂碑にも回り、そっと野の花をお供えして来ました。
今日は明るい日差しの下木陰の中は、すべてが静かに安らぎを得ているように見えました。
この方々の死を無駄にしない・・・とは、即ちどういうことなのか、それは今の私たちの生き方、在り方に向けられた問いかけだと思っている私です。


久しぶりの青空


ザワザワと風に揺れる葉が立てる音に、いつも秋を思い浮かべる私です。


 



トマトも雨に打たれながら、案外大丈夫なもの。ずっと毎日食べています。



キュウリの棚にカボチャが成っています。


 


今日は朝から気持ち良く晴れました。
ところが吹いてくる風は、もう秋のにおいです。
サラッとして心地よい、乾いた空気はもはや夏の終わりを告げているようです。
昨日、一昨日は、雨が降ったり蒸し暑かったりだったのに、自然の動きは時々とてもドラマチックです。

ここしばらくご報告もしないままの我が菜園は、ジャガイモは掘り終わったものの乾燥が不十分なまま、仮保存の状態。
トウモロコシも、つい先日採り終えて茎と葉だけが残っています。
そろそろ秋野菜の準備をしなくてはなりません。
まあそれにしても、このところの雨続きで作業が出来ず、作物も草も共に伸びるだけ伸びて、そこらじゅうがジャングルの様相です。
カボチャのツルが大暴れに伸び、トマトやキュウリの支柱に這い上がって、大きな実を成らせています。
作物は、ある程度育ってしまえば後は少々放ったらかしでも、案外大丈夫なものだと分かったのが、今回のもう一つの収穫だったかも知れません。


一方で、キヌサヤはウドンコ病にやられて、少ししか収穫しないうちに枯れてしまいました。
ナスも何が悪かったか大きく育たず、結果ほとんど実が成りませんでした。


概ねうまく行ったものの、思いがけず失敗してしまったものもあった今年の我が家の畑です。
これから秋冬に向かってそして来年へと、より良いやり方を見つけて行く楽しみは尽きません。


こんなことを言っていられるのも、生業ではない気楽さでやっているからですね。
それでも本人は、至って真剣なんですよ。


 


さてお盆期間中・・・。
我が家は、帰省して来た子どもたちとその家族で、昨日がピークの超満員状態。
そして今朝にはもう、別なところへ出かける者あり、帰宅する者ありで、若い人たちのエネルギッシュな動きに感心するばかりです。
そう言いつつ、昔は私も、小さい子どもたちを引き連れて、遥々当時暮らしていた千葉から高知まで帰省したこともあつたのです・・・。
これから、残る次男夫婦たちと孫を交えて夕食の後は、当集落の盆踊り大会に顔を出して来ようと思っています。


気が向いたら、盆踊りの様子ご報告に及ぶかも知れません。

異空間


 


春の頃、そこは桜の花の咲いている様子があまりに美しくて、とても気になっていたのですが、何となくいつも遠目に見ながら通り過ぎていました。

それが今日は、出かける前からその場所のことを思い出し、立ち寄ってみようと決めていました。
用事が終わって帰り道、少し脇道に逸れて車を止め歩いて近づいて行くと、思った通りそこは小さな公園でした。
でも、あまり人が訪ねている様子はなく、生い茂った樹木の下は薄暗く、下草も少し伸びていて何となく荒れているように見えました。
静寂が支配し、霊気が満ちているような感じが漂っているのが、私には分かりました。

まず最初に大きな石碑が立っているのが目に入りました。
多分このあたりの、開墾あるいは灌漑水路の竣工を記念する碑だろうと思ってさらに近づくと、「戦没者」の文字が目に飛び込んで来ました。
そしてそこには、多数の太平洋戦争の戦死者の名前が刻まれてありました。

そうか、忠魂碑だったんだ・・・。
私はそうとは知らずに、裏手の方から入ろうとしていたのでした。
道理で何か違う気配を感じるはずだと、納得しながら薄暗闇の中へと足を踏み入れました。

日頃、あまり顧みられることのない場所なのか、そこは違う時間が流れる異空間のように、私には感じられました。
薄暗闇の中から木立のすき間に見える外の景色は、夕方だというのに妙に明るくまるで別世界のようでした。
そうか・・・、今日からお盆に入ったんだもの・・・。
呼ばれちゃったのかな、と思いつつ写真を撮らせてもらって、そっと立ち去りました。
この次は、何かお供えするものを持って、もう一度訪ねようと決心する私でした。


 


 


 



 


 



 


 

融通の利く人類が作った、融通の利かない社会

人類は多分、あらゆる生物種の中で一番環境適応力が高い、つまり融通の利く生き物でしょう。
だから、地球上のほとんどあらゆる場所に適応して生存している。

極寒のシベリヤから熱帯雨林のアマゾンまで、およそ人の足跡の付いていない所は無いと言えます。
猛獣や毒蛇や毒虫にも対処し、豪雨も干ばつも、大雪も大風も、地震や山火事でさえも、ありとあらゆる自然の脅威を上手に避け、逆にその中に恵みを見出だし活用する術を発見し、磨き練り上げそして共有して来ました。

例えば、毒草や毒キノコの利用法には、人類の英知の真髄と言えるほどの高度な、知と技と感が集大成されています。
また、山に火を放ち制御された範囲に人工的な山火事を起こして地味豊かな耕作地に変え、何年後かにはまた自然に返して行く、こんなことをするのは人類だけですね。

だからこそ人類は繁栄の一途を辿り、これほどまでに数を増やして来たのですね。

もはや人類は、自然界に多大な影響力を行使することが出来る存在だと言うことを自覚し、その力の使い方を誤らぬよう、いつも熟慮しなければならないのではないでしょうか。
私は、もし人類に課せられた使命があるとしたら、それはこの自然界を豊かな生き物たちの楽園にする仕事だろうと思っています。そして人類自身の生存も、そのバランスの中に収まっている必要がある・・・。

ところが実際はどうでしょう。
いつの間にか人類は、自分たちの作った「社会」という小さなお池の中で繁栄を謳歌し、地球全体のことを忘れてただ恵みを受け取ることしか考えなくなりました。
そして、人類のためにのみ都合の良いシステムが完成に近づくに連れ、それは次第に自然の営みとは相容れないものになってしまいました。
例えば、近年ちょっとした災害があっても、すぐに大きな被害が出てしまうのは、私たちの「社会」が自然に対して融通が利かないからだと言えるのではないでしょうか。

どんなにハイテクを誇っても、自然の営みそのものを制御出来るわけはないのですし、制御するのではなく合わせて行くことの中にこそ、人類の英知は結集していたのですから、私たちが作り上げて来たこの融通の利かない経済産業主導の社会は、この際大きく変容すべきだと私は思います。

どのような道があるのか、それはこの自然に真摯に向き合えば、すでに示されているのではないでしょうか。
一度は辿って来た道を、新しい視野と知識と経験をもって見直せば、すぐにもこれからの行くべき方向は見つかるのだと思うのです。
ただし、そこで求められるのは、変えるあるいは変わる勇気だと私は思います。
もはやのっぴきならぬ関係にある人類と自然、問われているのは私たち人類の在り方の方です。

関連記事

時を同じくして、私の友人知人のブログに関連のある記事がエントリーされています。

★ takさんの「今日の一撃」 <参照>
★ kawauchi ideさんの「本気、根気、元気」 <参照>

そして私自身の過去記事もご覧いただければ幸いです。
<参照1> <参照2> <参照3>

今日は朝から、東海地域で発生した地震のニュースで大騒ぎです。
個人的には、浜松市にいる友人の状況が気にかかります。
現地の方々には、心よりお見舞い申し上げる次第です。